論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
<< 連載コラム「いまここを味わう」(第63回)井戸を掘って、水があるんだから | main | 連載コラム「いまここを味わう」(第65回)河野義行さん――野(や)であって野(の)のひと >>
連載コラム「いまここを味わう」(第64回)小さく低く弱く遠いところから

 9月13日(日)に伏見の世光教会へ、本田哲郎さんとの対話をしに行った。
 本田さんに会って話をすると、私は心が落ちつく。
 夏の疲れが出ているのか。体が少し重い。けれども、心がスッキリし、軽くなった。そんな気がいまここでしている。
 何度も書くけど、「小さく低くさせられたひと」とは誰か、である。9月13日にも話題になる。
 あるひとが「べてるの家」のひとたちとの交流のことを話した。「べてるの家」の、とても未来性のある話。
 北海道の浦河の赤十字病院に集まっているひとの物語だ。私も何度も書いているし、本もいっぱい出ているし、海外のひとびとも関心をもっているひとたちのこと。
 精神障害のひとたちが互いの〈弱さ〉を認めあい、ケンカトラブルは〈恩寵〉という態度の中に、「小さく低くさせられたひと」への(神からの)励ましがあるのだ。9月13日の話をまとめれば、こうか。
 どういうことか。べてるの家に初めてやって来たひと、初めて自分の人生に余計な口出しをしたり、管理したりするひとがいないことに気づく。医者だって「治したくない」「治りませんよ」と言う。だから。当事者たちが対話しあうことによって、つまり「場所」の応援を借り、生きているという充足感が湧き上がるまで、待つことを学ぶ。そのころ精神障害そのものがそのひとの個性のひとつと感じられるんだ。
 「場所」の応援のような精神の運動が起きているのがおもしろい。それが(神からの)励ましだ。劣等の意識の垣根も壁もすべてじゃま。本来価値から遠いことが体感される。これが出発。
 私たちはいかに多くのものに依存しているか。社会的名声。豊かな収入。成功。見栄えのいい職歴、学歴。私だったら、本。
 本来はすべてがなくても生きていくのには何の支障もないものばかり。死んでも持ってゆけないものばかり。
 飛ぶ鳥を見よ。
 そう思って寝ても、翌朝起きれば、依存だらけ、呪縛だらけの姿にまた戻っている。私もそうだ。
 でも、それでいい。「ああ、きょうもミィーティングしたけど問題は解決しなかった」でいいんだ。そういう対話ができる仲間がいて、機嫌よく「解決する」という方向に歩いているんだから。
 病いというのは、本人の意思とはかかわりなく、本質価値の人生へ転換させてしまう。身体が不自由、仕事に集中できない、他人が怖い、お金がない、家族から疎まれている、字が書けない……という現実に陥ってしまう。しかし、そうだけど、弱いもの同士が助け合っていく場所そのものがあり、字が再び書けるようになっていくこと、これは拍手喝采の出来事になっていく場があるのである。生きるということだけで、ただそれだけで、どれほどの本質価値があるのかを自覚できる場所。
 宗教は同じ行為を、ただ主体的に行うことだっていうこともわかるね。
 世光教会に集うときの気づきをいまかみしめている。本田さんの笑顔を思い出している。
(9月17日)

 

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:17 | comments(0) | - | - | -









    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>

このページの先頭へ