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連載コラム「いまここを味わう」(第72回)包摂されてある暮らし――『おばあちゃんは木になった』から

 能登川図書館のことをちょうど考えていた。
 「才津原さん(元同館長)がいなくなったら、行っていないな、足が遠のいたな」と思っていたときに、ある友人から電話が入った。
 「大西暢(のぶ)夫さんの写真展がいま能登川図書館でやっています(11月22日まで、私はまだ行ってない)。大西カメラマン、知っていますか」と。
 知ってるのなんのって、大西さん、私の生地のすぐ近くの町が故郷。いまもその生まれ育った地(岐阜県の池田町)に暮らしている。
 『アレクセイの泉』(小学館)の本橋成一さんに師事していた。
 大西さんに会ったことはないのだけども、遠くからいつも心は寄せてきた。
 精神科病棟に長期入院しているひとたち。アール・ブリュット(生の芸術)を生み出しているひとたち。3・11の大津波の記憶を抱えているひとたち。――こういう暮らしの姿を大西さんはとっていた。
 忘れられない絵本がある。
 大西さんの『おばあちゃんは木になった』(ポプラ社、2002年、以下本書とする)である。
 主人公は岐阜県の徳山村に暮らすひとびと。
 その徳山村は、どの日本地図にもいまはない。のっていない。消されたのである。
 徳山村は奥美濃の能郷白山(1617メートル)、冠山(1257メートル)の麓にある。福井県との境にある、深い自然の山村だ。
 私の小学校時代のことだから、半世紀以上も前のこと。副教材の冊子で「徳山村に日本で最大の巨大水力発電ダムの計画」として読まされたのを覚えている。そのために生きた村を潰すのである。「ふうーん」と思ったので、きのうの如く覚えている。
 高度経済成長でどれだけの村が、どれだけの田畑が、どれだけの自然海岸が潰されたことか。
 「最大多数の最大幸福」。それはそれで有効な場合もあるんだけれど、でもね、ひょっとして少数者の圧殺を前提とする恐ろしいレトリック(修辞)なのではないのか。ウソなのではないか。
 『おばあちゃんは木になった』の広瀬はつよさん。
 物置小屋でひとり暮らし。電気もガスもないので、夜はロウソクに頼るしかない。
 秋に採ったトチの実を天日干し、正月用のトチもちを作っている。
 朝は川で顔を洗い、夕方には川の水を入れ風呂を立てる。
 「『ここには神さまがおるよ』と、はつよさんは言う。水の神さま、光の神さま、山の神さま、土の神さま、木の神さま、そして、ご先祖さま。」
 「『ええ夕陽や! また元気がもらえるな。ここに生まれたことに感謝せなあかんな』。山から帰ってくる途中、杉林の中に射し込んだ夕陽が、はつよさんの顔を赤く照らした。『みんな街に行ってまったけど、徳山の神さまは今までどおりおってくれとる。わしにはそれがわかるんじゃ。きっと一番最後まで残ってくれるんじゃろな』そう言って手を合わせた。」(本書P.31)
 なんという気品のある暮らしか。
 こういう暮らしを潰しておいて、ダム計画は頓挫。計画変更を一切許さず。電力需要がなくなり、断念。なんじゃ、これ。
 なんという政治。
(11月12日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 09:53 | comments(0) | - | - | -









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