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連載コラム「いまここで味わう」(第73回)いのちの底の青空――改めて生きる意味を問い直す

 どうしてひとはノボセるのか。
 孤独で孤立したひとりひとりの自我感情が何かに夢中になり、頭に血がのぼって、興奮し、めまいするしてしまうのである。いくら自分さがしをしたって何もない(自分なんて幻)。
 その多くのノボセの対象は、金銭や世俗的な幸福(感)である。目に見えるものである。
 私のこと、ついでに言えば、そういう世間的な評価のようなものから、なぜかズレている。私自身でもわかんないのだけれども、どうしてかズレている。いわば変人。しかも、凡夫。目には見えない何かを私なりに追い求め、ノボセているんだ。そう思っている。
 そのノボセを見つめる「もうひとつの意識」が追い求め、実感できれば、そのノボセは相対化できる。少しでも相対化できれば、無明(むみょう)の激情に流され、体を痛めることは減らすことができる。
 無明のことを、キリスト教では原罪と言っていたんだと最近思うようになった。
 相対化させる「もうひとつの意識」。どこか外から自分自身を見つめること。
 このことを、空、仏性、観自在菩薩、非思量、阿弥陀仏、マインドフルネスとさまざまな呼び名で古来から現されているんだと思っている。
 エゴイストの凡夫の私は絶対に「生きとし生けるものの幸福」を願うことはできない。絶対にできない。ウソは言えない。
 でも、同時にもしも「私のいちばんキライなひとの幸福」を願うことができるならば、願った私ではない、私を突き抜けていった底にある「もうひとつの意識」であることは間違いない。そういうことが、凡夫にもたまに可能なのである。
 今年(2020年)に入って生まれてきた「コロナ禍」。
 いったい何なのか。一般報道で伝えられているような伝染病ではあるいはないのかもしれない。しかし、何か、「もうひとつの病い」が蠢(うごめ)いているのかもしれない。
 いまだに実相は全くわからない。実相実態がわからないままに、「病い」そのものの説明がないままに、それぞれの人生を自ら問い直していかねばならない状況に至っている気がしている。
 「君の人生は何か」「何のために生まれてきたのか」「あなたは何を残して死んでいくのか」と。
 好きなひととも会わず、やりたいことを先伸ばししているままにしておき、話したいことも発言せず、社会的距離を保ったまま、「何を為していくのか」が問われている気がしている。
 今年上半期(1〜6月)の出生者数が減り、なんと死亡者数も減っている。出生者数は不安を抱えて減ったのか。死亡者数は「なぜ?」「コロナ禍じゃないの!?」
 よくわからないね。ふしぎふしぎ。
 わからないままに、不安と恐怖にノボセてしまったのではないか。
 自らのいのちの底の青空に気づかないのか。マイナンバーの看板をぶら下げた被支配者のまま生きて、死ぬのか。ハンコが消され、しまいに日本語だって壊され、根を失ったままに浮遊するのか。
 生きることの意味を問い直すこと。ますます大切さを増している。
(11月19日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 12:48 | comments(0) | - | - | -









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