論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを味わう」(第47回)クリンソウの咲く山――ウラヤマ(その9)

 私の登山はヒマラヤ逍遥ではない。あえて普通に言えば、ウラヤマ徘徊。これは、自虐のオヤジギャグでは決してない。ただ事実なのである。
 そのウラヤマへの小さな、半日の旅。9回目である。
 5月のとある休みに、京都の北山の魚谷山(いおだにやま、うおだにやま、816メートル)に登った。
 大昔に今西錦司さん、西堀栄三郎さん、桑原武夫さんたちが盛んに登り、山小屋を建て、「雪山讃歌」が生まれていった山岳である。
 今は昔、静かな山岳に戻っている。
 樋ノ水峠から貴船山へ登ったとき(連載コラム「いまここを生きる」(第300回)ウラヤマ(その3))、北西方向にスッキリとした山塊が望めた。魚谷山である。
 その山へ初めて登ってみる。
 登山の朝はいつも、いつも緊張。どんな低い山岳であろうが、山への敬意を持ち、用具をチェックし、気合いを入れ直し、出発する。
 しかも、玄関先から、今回はなんと自転車で出発。バスが廃止になっているため。
 朝6時にキックオフ。全き青空の日である。
 下弦の月がうっすらと朝日に浮かんでいる。
 雲ヶ畑の出合橋を北上し、8時に自転車(ママチャリだ)を杉の木のヨコに置く。
 いよいよ山域。頭を下げ、入山。
 直谷沿いに登り上っていく。谷に朝日が入り、汗をかき始める。
 瑠璃色のカワセミが中津川の中央部を美しく飛ぶ。
 カジカ(ガエル)が鳴く。カジカの声はなつかしい。はるかかなたの昔のときを呼び起こすかのよう。
 ヒトリシズカの白い小花が連続的に咲いている。
 クリンソウも峠道沿いに、これまた連続的に咲きつづけている。
 紅紫色の花だ。40センチから60センチの丈(たけ)。それぞれがしっかり座して、70〜80個も連らなって、咲いているのである。朝の光を集めて、仏花のように座している。
 吉野弘さんの「石仏」という詩が昔から好きだ。
 クリンソウの紅紫の花たちがまるで「石仏」の詩のように、見えてくるのだ。光の森で「クリンソウ」たちの話し声が聞こえたかのように。なごみながら、思わず手を合わせる。詩は晩秋だけどね。

うしろで
優雅な、低い話し声がする。
ふりかえると
人はいなくて
温顔の石仏が三体
ふっと
口をつぐんでしまわれた。
秋が余りに静かなので
石仏であることを
お忘れになって
お話などなさったらしい。
其所(そこ)だけ不思議なほど明るく
枯草が、こまかく揺れている。

 私ははっきり気づく。この2か月間、コロナが生んだ、ぼんやりとした、言葉にもできないような不安があることを。
 そうして、クリンソウに自らの不安を、内的対話しながら、吸い取ってもらっていることに気づく。安心が湧く。
 この安心感は9年前の原発事故のときに、琵琶湖の北の赤坂山(824メートル)に登って、頂上から若狭の原発を見つめたときの気持ちに似ている(連載コラム「いまここを紡ぐ」(第303回)初めての山・赤坂山へ――原発と残雪と温泉と)。
 山の気を受ける。ただそれだけで、安らいでいくのである。
 私の登山は何かあると(格別のことはなくともただ疲れているだけでも可)、山岳をウロウロ徘徊し、汗をかいて、山へ気をもらって元気にさせてもらって、帰ってくるのである。
 その日も10時に柳谷峠に上がり、魚谷山に登頂。11時には早くも魚谷峠へ下っていった。
(5月21日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:59 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第46回)自分自身の魂の救い

 友人って、何か。もうひとりの私、と思う。実際の私とは違う、別の縁によって育つ、もうひとりの私自身だ、と思っている。
 そういう友人から教えられた本は読むようにしている。闇を生きる手掛かりになるから。ただし読了するのに半年も掛かったりすることもあるけどね。
 2冊の手掛かりとなる本のことを少し書く。
 山田正彦さんの『売り渡される食の安全』(角川新書、2019年8月)がそう。
 岐阜の共同体ゴーバルの石原潔さんから教えられた。ありがたい。
 山田さんは民主党政権時代の農水大臣。TPPに反対し、同大臣を辞めたひと。
 種子法を廃止し、遺伝子組み換え、ゲノム編集の大豆、トウモロコシをじゃんじゃん輸入している日本の現政府。農薬基準を400倍にもなぜか拡大緩和させ、食糧自給率もどんどん低下させ、もう、まともな独立国家とも言えないような日本の現政権。
 いやしくも政権を担う者ならば、最低限の民主・民生・民族(なつかしの三民主義、孫文だよ)ぐらいを希求するであろう。とくに民生(国民民衆の生活暮らしのこと、飢えさせないこと)ぐらいは少しは考えるであろう。それがないんだ。もう、どうなっているのか。まさしく異様な現政権である。
 そういう現在(いま)に、コロナウイルスが縁あって発生。
 現代文明の産業システムの限界点。物欲温暖化の臨界点。
 もう、無理なんだ。これ以上は。
 ホメオスタシス(恒常性)がガイア(地球)において働いているんだ。きっとね。
 コロナそのものが悪いんじゃない。敵じゃない。
 生命系全体の利他的な動きとして、遺伝情報を水平移動させていることは間違いない。
 あんな小さいウイルスだけど(1万分の1ミリメートル、マスクなんかで防御できるわけがないじゃないか)、ウイルスの動きを受け入れていく以外に、人間にはやれることはない。もういちど、コロナは敵じゃない。
 問題はウイルスそのものではない。
 ウイルスよりも恐ろしい政治の蔓延だ。
 60年前の水俣病のときだって、政府官僚はチッソを守った。9年前の原発事故だって、政府は電力会社を守った。惨事便乗型の強欲資本主義が次々と、恐ろしく大きくなっていくだけではないか。どうするのか。
 考えているそんなとき、ジェイムズ・H・コーンの『誰にも言わないと言ったけれど——黒人神学と私』(新教出版社、榎本空訳、2020年3月、以下本書とする)が届いた。
 これも岐阜の共同体ゴーバルの桝本尚子さんから送られた。ありがたい。
訳者の榎本空さん、桝本さんの娘の百々子さんと結婚。『愛の余韻』の榎本てる子さん(2019年9月12日のコラム日録「山吹と虹」にある)の甥。これらは本書の内容とは直接無関係のことだけど、記す。
 筆者コーンのことも黒人神学があるということも、全く知らなかった。
 J・コルトレーンのジャズが好きなので、マルコムXのことを少し知っており、アパルトヘイト時代の南アで白人たちに立ち向かっていったスティーブ・ビコがいまでも好きなので、とってもおもしろかった。きわめて厳しいことを綴っていることに「おもろい」と言っちゃあ、ヘンだけど、「何がほんとに大切なのか」「何がいちばんほしいのか」「何を実現したいのか」が本書にはあるので、オモシロイ。
 ボールドウィンを引用しながら、コーンは書く。
 「『神の性質とは、一人一人の人間の側における永続的な創造の業なのです。私たちは自分の魂の救いに責任があります』。自らの『健康や病』『生と死』に対して究極的な責任を負っているのは、『それぞれの神』の前に建つ私たち人間だけなのだ」)(本書P.231)。
 小さく、低くされて、その死の象徴の十字架すらが商標のようになってしまっている白人キリスト教会。黒人を自由に殺りくし、リンチの木にぶらさげつづる白人人種差別者たち。十字架は黒人たちにとって実存そのものだったのだ。
 本書をいま白人たちはどう読むのだろうか。アメリカ先住民をジェノサイドし、同じように黒人を虐殺しつづけ、ベトナム戦争でベトナム人を抹殺し、日本に原爆を落とし、植民地支配しようとしている「戦争中毒」の米国白人たちの魂の問題を本書は逆照射。米国の根本の難問である。
 そうして、黒人神学すらなく、末法のさ中の日本の腑抜けの魂の問題。
(5月14日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 14:35 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第45回)風の記憶――出雲という故郷

 ある祝日の日に自転車で、ある本屋へ行った。
 恵文社一乗寺店だ。たまに入ると、おもしろい出会いのある書店である。
 そこで宇沢弘文さん(1928〜2014)の『経済と人間の旅』(日経ビジネス文庫、以下本書とする)が平積みしてあった。「新刊か」と思ったら、2017年10月刊。自伝である。「おもろい本屋や」と思いながらも、求めた。
 社会全体の礎石をすえていくような学者に対して私は敬意を持ちつづけている。宇沢さんもそのひとり。
 宇沢さんはひとことで言えば、ひとの情愛、喜怒哀楽を経済の解析に入れたひとである。
 「経済学は人間を考えるところから始めなければいけない」(本書P.11)とわざわざ書かねばならないのは、いかに現実の経済学が幸せを生み出さないものかを示現している。
 教育、医療、農業、地球環境は宇沢さんの言う社会的共通資本のひとつだ。いまのコロナウイルス、医療削減をやってしまったところには医療崩壊が起きている。教育だって、同じ。教育を粗末に取り扱ったところは、社会の根幹が崩壊してしまっている。日本はどうか。
 「政治や経済の面ではあまり恵まれなかったものの、すぐれた文化と豊かな人間性をはぐくんできた山陰に生を受けたことと無縁ではない」(本書P.12)。
 宇沢さんは鳥取の米子の生まれ。鳥取県日野郡生山(しょうやま)の永福寺(曹洞宗)で育てられた。その住職との交流と豊かな自然が拠りどころであり、思想の基礎になっている、と振り返っている。
 宇沢さんの経済学、人間のほうに明確に力点が置かれる。政治経済はその内部のひとつになって含まれている感じ。《There is no wealth, but life》を「富を求めるのは、道を開くためである」と訳した宇沢さん。石橋湛山に似てるね。
 コロナ後の社会は、社会的共通資本を深め、広め、強くしていく方向に持っていかないと、もう、ほんとうに社会は崩壊してしまうではないか。
 その書店で、もうひとつ、出会いがあった。
 藤原辰史さん(1976年生まれ、歴史学)の「パンデミックを生きる指針——歴史研究のアプローチ」(8ページ、A4版)が「free」(著者の許諾を得ている:自由に印刷・複製していただいてかまいません、とある)で置いてあり、いただいてきた。
 どんどん読まれることを、広められることを望まれる。そんな「指針」だ。
 藤原さんは日々の食べもののことから社会の片寄り、不正義について考え始め、そのことによってつながっていくことの大切さを、示現してくれている貴重な学者だ。著作はまだ2冊半しか読んでいないけど。
 「歴史の女神クリオによって試されている。果たして日本はパンデミック後も生き残るに値する国家なのかどうかを。(略)皆が石を投げる人間に考えもせずに一緒になって石を投げる卑しさを、どこまで抑えることができるのか」(「指針」P.7〜8)。
 藤原さんは島根県の横田町(現・奥出雲町)出身。横田高校(ソフトテニス部)の卒業。エッセイに生活苦を生きている同級生のこと、よく登場してくる。たたら製鉄の地だ。
 出雲は古代に王朝があり、ヤマトに滅ぼされた。アイヌと琉球(沖縄)と出雲の3つが征服されたひとたちの文化の地だ。
 宇沢さんと藤原さん(に佐々井秀嶺さんを入れたい)の心の原形に、出雲のひとびとの暮らしがある。故郷だ。何十分の一だけども、忘れえない形を残している。その形がやさしさを生んでいる。
 樹木の形は風がつくる。強い北風が吹きつけるところの木の葉は南の方へ曲って、伸びる。揺らした風の記憶が樹木に刻み込まれる。それが故郷の風景を生んでいく。
 宇沢さん。藤原さん。それぞれの心には出雲の風があり、心の樹形をつくっている。
 コロナ後の日本には、出雲やアイヌ、琉球の風が吹きつけて欲しい。ひとにやさしい日本だ。夢に見る「やさしい日本」である。
(5月7日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:37 | comments(0) | - | - | -
再開のときに再会――それまではどうかお大切に

 論楽社の月例会、講座はいつ再開できるのか。
 わからない。いまのところ、見当がつかないね。
 コロナウイルスの動きしだいだ。
 いまはまだ第一波だ。
 これから第二波、第三波と地球を何周もするんだろう。
 100年前のスペイン風邪(インフルエンザ)だって、3年もかかっている。
 しばらくは待つことだ。
 じっと待っていこう。
 リトリート(瞑想に専念するために引きこもること)しよう。
 読書しよう。
 手料理をつくろう。
 そうして、気づいたことを日付を入れてメモしていってほしい。記録しておいてほしいな。
 再開した論楽社の月例会で、そのメモを基にして、話してほしい。
 とにもかくにも止まない雨はない。
 明けない夜もない。
 いまここを故郷(ふるさと)にし、希望を掟(おきて)とし、鼻歌でも呟(つぶや)いて、いのちを守っていこう。
 友人に手紙を久しぶりに書いてみよう。
 川の流れをのんびり見つめ、新緑のケヤキを見あげよう。光いっぱいの世界だから。
 お香を立て、部屋のぞうきんがけをしてみよう。
 自我感情(シンキングマインド)を盛り上げてしまい、妄想映画を見ないようにね。
 そうして声を出して、「イヤなことをイヤ」と言っていこう。でないと、「ウイルスよりも恐怖する」政治が、蔓延してしまうよ。
 再開のときに、再会しようね。
 じゃあ、またね。
 それまでくれぐれもお大切に。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 18:22 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第44回)「ひとが先」(文在寅)

 Eさん、資料をいつものように送っていただいて、まことにありがとうございます。
 それぞれ読ませていただきました。
 コロナウイルスに立ち向かう各国の対応がわかります。よく伝わってきますね。
 なかでも韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領、台湾の蔡英文(ツァイ・インウェン)総統、メルケル・ドイツ首相の言葉が心に沁みました。
 政治家の言葉はきわめて重要です。危機の時代のいま、大切な仕事です。
 社会に生きてあるひとびとに呼びかけ、心を耕し、そうして明日の希望を織っていく言葉です。実践に基づけられた言葉です。
 もちろん政治家ですから、さまざまな批判があって、あたりまえです。文句はいっぱい届くでしょう。
 多数派を形成し、政権を担うのです。反対派・少数派のひとびとの耳にも心にも響く言葉を投げかけ、理解を促したうえで、政策の実行を計るのです。みんなが乗っている船をとにかく難破座礁させないように運行していくのです。とてつもない数のひとびとのいのちを救うのです。
 Eさん、特に文在寅さんのがよかったです。『運命 文在寅自伝』(岩波書店、矢野百合子訳)を読んでいるかもしれませんけども、「ひとが先」「ひとが暮らす世の中」という平明であたりまえの精神が紡がれています。
 軍事政権の圧倒的な暴力に立ち向かったひとたちが韓国には生きて暮らしているのです。
 今年の4月19日の革命記念日の文さんのスピーチです。
 「4・19革命(1960年の李承晩政権を倒す)が追求した政治的・市民的な民主主義を超え全ての国民の生活を保障する実質的民主主義として拡張すること、これが今日、私たちが具現するべき4・19革命の精神と信じます。」
 「全世界が共に経験することになる‘ポストコロナ’の状況を私たちが再び開放性、透明性、民主性を基盤とする‘連帯と協力’の力で克服することができるならば世界の人々に大きな勇気を与えることができるでしょう。経済、産業、教育、保健、安全など多くの分野で新たな世界的な規範と標準を作り出すことができるでしょう。」
 「4・19革命が今日、私たちに示す真の教訓は昨日の経験が今日と未来の私たちを作るということです。」
人間が生きてある社会なんだから、「韓国がいい」なんて言っているのではありません。韓国にはきっといろんな問題があるでしょう。
 しかし、繰り返しますけど、「ひとが先」「ひとが暮らす世の中」精神が絶えず民主化闘争を推し進めてきたのです。2016年のろうそく革命に至るまでの民主化闘争の深い積み重ね。東アジアで強大な軍事政権を、すさまじい犠牲者を生みながらも倒したのは、韓国だけです。
 コロナ対策で「所得下位70パーセント」へ、国防予算を9000億ウォン削減し、当てるとも言っています。戦闘機、ヘリコプター、戦艦を削って、「ひとが先」を実践していくのです。
 各国も見習って軍縮してほしいです。
 コロナの第一派がたとえ過ぎても、第二波、三波ときっと来るでしょう。おまけに地球環境異変の台風洪水が引き続き、繰り返されること、間違いありません。日本の場合、地震だって、いつ起きてもおかしくありません。
 多層多重危機です。ひょっとしたら、飛んでもない空(くう)、無、ゼロが生じると思います。
 しかし、空、無、ゼロは何もないのではない。あらゆるものが内在し、無尽蔵であるのです。いっぱいあるのです。「軍事費をコロナ対策に回そう」との動きがもっと生まれるかもしれません。希望が掟なんですから。
 私たちの社会は、社会そのものが痩せ細っています。何かやろうとする能力も考えたりする能力も、他者と「何が正しいか」を共有する能力すらも痩せ細ってしまっています。「しょうがない」のため息だけが満ちています。
 日本には政治家がいません。なぜ「いま苦はある。でも苦は必ず取り除くことができる。方法がある。いまは互いに辛抱し、実現していこう」と言葉にできる政治家がいないのでしょうか。
(4月30日)

 

| 虫賀宗博 | - | 09:38 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第43回)悪と行(ぎょう)

 頼りとするのは、断片。新聞や雑誌の小さな切り抜き、映画やTVのほんのひとときの誰かの表情。論楽社での参加者・話し手のちょっとした表情、ひとこと。
 それらが闇を生きぬく手掛かりになる。ヒントになる。
 手掛かりを頼りに少しでも前へ、前へ、進んでみる。直観を胸にエイッと歩いてみる。
 15年前の、ある小さな新聞コラムを書き抜いておいた。捨てずに保っておいた。それがポロッと出てきた。
 西山厚さんについての小さなコラム(2005年1月6日、朝日新聞)。全く知らないひと。でも、顔がいい。表情がやわらか。人間、いろんなことが顔相に沁み出てくるもの。その顔を頼りにし、西山厚さん(15年前当時は奈良国立博物館資料室長、現在は帝塚山大学の教員)の『仏教発見!』(講談社現代新書、2004年、以下本書とするね)を読んでみたのである。
 顔相そのままの、滋味深い、温和な本書であった。おもしろかったな。でも、文句も湧いたな。文句は志を伝える作業でもある。
 縁起についての西山自由訳が「どんなことにもわけがある」なんていい。簡潔で巧みだ。
 圧巻なのが、聖武天皇。東大寺の大仏造立の詔(743年)で天下の富と勢いを持つのは自分だ、と言っている。「オレ様天皇か」と思っていたけど、違っていた。祖父母、父を20代で亡くし、子どもをも亡くし、世は干ばつ、飢饉、地震、病気が相次いだ。〈その責任はオレひとりにある。自分は徳もないのに天皇になってしまった。いっしょうけんめいやってはいるけど、十分ではない。仏教の力をもって、なんとか天地をゆたかにしたい。人間だけじゃなくて、動物も植物も、すべてのいのちが栄える世にしたい〉——。聖武天皇、やるじゃないか。
 そのためにひとりひとりが自分の盧舎那(るしゃな)仏をつくり、みんなで「生きとし生けるものの幸せ」を祈っていこう、という願が大仏建立へ。
 コロナウイルスのいま、改めて大切なことを言っていると思う。
 聖武天皇のことを知らなかったと思う。本書に出会わなければ、そんな天皇のこと、気にもかけていなかった。
 本書が説明するように、日本の仏教は宗派宗門にこだわり過ぎていると私は思う。縮小再生産のくりかえしで、細かく小っちゃくなりすぎているとも思う。
 それもたしかである。私はそもそも「宗教がひとを救うのではない」と思っている。救いって、じゃあ何なのか。そのひとがひととしてのびのび生きることができること。この地上の現世のいまここで(来世でなく)、安心し、平和で、喜びの中に生きとし生けるようになることである。
 宗教はそれを実現するための手立て。手段(政治だって、経済だって同じ)。宗教がなくても、それが実現できれば、オッケー。
 ただ自らの欲望への執着を自力で相対化無化できるすることがなかなか難しいので、宗教を手立てに使うのである。ナマの生命体験に至り、彼岸に渡ることができるならば、その手立てとなった舟は乗り捨てればいいのである。
 私が望むのは、社会、国家、天皇のための私ではない。私たちのそれぞれがそれぞれに喜びを深め、ひとりひとりが私たちそのものでありつづけるための社会、国家、天皇。
 私はそう思いつづけている。
 本書の西山さんは善良なひとで、歌が自然に湧く、明るいひとなんだけれど、仏教の説明がフラットすぎる。良い子すぎる。法然と明恵を並列して説明するのもええけど、明恵の法然に対する呪詛(じゅそ)の手紙も引用しなきゃ。
 不平をもう少しあえて言えば、宗教が扱う「悪」だ。本書には「悪」が不足している。実存としての「悪」だ。小さくされてしまった悪人への気づきから湧き上がる何か、だ。「悪人正機」の気づきこそ、宗教や文学の普通のテーマ。主題。
 そうして最大の問題は、本書には行(ぎょう)が決定的にない。実践がない。行がない学や論は、仏教ではない。
 以上、ひとつの感想。出会って、よかった。批判はしたけど。「お与え」の生の違いだから。
(4月23日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:21 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第42回)へこたれずに生きぬいていれば――『モンシル姉さん』のように

 Yさん、お元気ですか。手紙、届きました。ありがとうございます。
 あったかーい、Yさんらしい手紙ですね。
 でも、同時に少しイライラしている感じも伝わってきました。
 コロナウイルスそのものが醸し出す不安もきっとあるでしょう。Yさんの焦燥感は「ウイルスよりも恐ろしい」政治から由来しているのかもしれませんね。心の冷たい政治家は何を言っても何を為しても冷酷ですねえ。
 病を得たひとは、そのひと自身の内部の何かの要因によって、その病に罹(かか)ったんでしょうか。
 違います。
 すべてのことは縁起によって生じています。
 なのに、いまは病を得たひとのせいにしています。
 なぜ答えの出ない状況にもう少し耐えていかないのでしょうか。
 なんで社会防衛の論理、支配の論理なんかが出てきているんでしょうか——。
 ハンセン病の歴史、なかったのでしょうか。
 Yさんには、思い切ったことをあえて言ってみます。
 「たとえ悪魔で現れようがその姿はすべて私を済度(さいど)せるための方便(手立て)の姿」ってことをあえて言い切って、コロナ騒動にも対峙してゆきたいと思います。
 いま、ある友人から『モンシル姉さん』(てらいんく、2001年、以下本書とする)が送られてきました。
 書き手は韓国の児童文学者の権正生(クォン ジョンセン)さん(1937年東京生まれ)。訳者は卞記子(ピョン キジャ)さん(在日朝鮮人二世)。
 作者名も、出版社名も、韓国においてベストセラーになっていたことも、何にも知りませんでした。
 知らないことが幸いしたのか、最初からツルツルと読み始め、本書には「いとしい、美しい魂の世界」が流れ満ちおり、とても満たされて、読了しました。とってもいい本です。
 主人公のモンシルは光復(1945年)後の韓国に生を得ます。2人の父、2人の母がいて、貧困に耐えぬき、4人の親と死別してからも、妹を育てるために、乞食をしながらでも生き延びていく物語です。
 父の暴力の結果、モンシルの足は骨折し、曲ったままで、生涯を送っているのです。
 「母さんをうらんだりなんかしないわ。人はみんな、それぞれにその人なりの人生があるっていうもの」(本書P.161)。
 「どんなにつらくてもがまんして、一生懸命生きていく中でわかるようになるわ。どう生きるかは自分できめることなの」(同P.74)。
 まっすぐに、へこたれずに(忍辱して)生きぬいていれば、悲苦はその分だけ光明に変わっていきます。いのち世界によって支えられているから。
 もちろんフィクションです。『星の王子さま』だってそうですけど、本書もフィクションでしか表出できない祈りの世界です。作者の、あったかーい、骨太な祈り、と受け止めました。
 Yさん、不透明な時代だからこそ、たまには童話や詩文の持つ力に接し、世界をもういちど洗い直す心の作業が必要かもしれません。
 お元気でね。またね。コロナウイルスはまだまだこれからです。たいへんなことも起きてゆきます。でも、互いに励ましあっていきましょうね。
(4月16日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 09:03 | comments(0) | - | - | -
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