論楽社ほっとニュース

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連載コラム「いまここを生きる」(第300回)ウラヤマ(その3)

 「私の登山、それはウラヤマだったんだ」という気づき――。
 それは再発見であり、自己受容の再気づきでもある。
 ヒマラヤ逍遥はしなかった(できなかった)けど、ウラヤマ徘徊はやっているではないか――。
という、ウラヤマ徘徊。その3回目。
 3月半ばの休日、貴船山(699.8メートル)へ向った。再び落葉の山道をふみしめたくなったからだ。
 「叡山電車」の二ノ瀬(にのせ)駅で下り、朝6時40分から登り始める。その日、晴れ、ときどき曇。
 植林スギのまん中を登る。ジグザグの巻道(ユリ道とも言われる)を登る。
 妙に汗ばむ。3月の山はまだ冬。なのに、汗をかく。雪は全くない。
 植林が荒れている。昨年10月の台風(京都は風速30メートルの風が吹き荒れた)によって、密植しすぎているスギが一見するだけでも何百本と倒れている。
 いま、どの山でも同じに倒れているんだろう。敗戦後ゼニのためにスギを植えた。木材自由化によって、値が崩れ、30年育てたスギだって、1000円にしかならない。放置されている。日本の森は荒れてしまっている。
 どうしても登りながら、想像してしまう。「もしも凄まじい豪雨が来たら、倒木スギが谷を下って、下流へ、次々に流れ出る。何千、万本もの倒木が凶器となるのは簡単。流域の家屋や橋に次々にガンガン体当りし……」と。
 実際に各地で発生している水害。
 どこにおいてでも可能性がある水害である。
 「橋にガンガンと体当たりする音」まで想像してしまうのは、体の芯が疲れているからか。
 いまここに戻りにくい。すぐに木の上の猿のように、気がどこかへ散ってしまう。
 「こういう日もあるよ」と思って、自分の心には非暴力に接する。
 8時20分、やっと植林スギという人為がとにかく消える。
 ユリ道から分岐し、樋ノ水(ひのみず)峠へ出る。
 この山道がいい。この峠道がいいな。
 モミの大木が2本ある。樹齢何百年だ。
 リョウブ、クヌギ、コナラの落葉樹がいい。青空が広い。
 まだまだ冬木。でも何パーセントか、春を迎えている気がする。その動きを鳥が察し、集まっている。
 コゲラ(キツツキ)が多い。8羽も見た(8羽って多いね)。頭や首が疲れないか(こういうことを思うって、やっぱ、オレ、疲れている)、と思うほどに、ドラミング(太鼓をたたくように口元でつっついて、木の中の虫を捕る)。
 樋ノ水峠はいいね。北山の峠や低山がゆったりと見渡せる。風通しのいい峠だ。
 「月天心貧しき町をとおりけり」(蕪村)という句、あるよね。闇を生きる人間の町――という一方にあって、もう一方に、雲ひとつない虚空に月がある。両者を同時に絵画として示現。忘れられない句。
 闇を生きざるを得ない、凡夫の私自身に、「月天心」の視点をほんの少し与えてくれるのが、私にとっての登山なんだ。
 改めて、そう思った。
 12時に滝谷峠から貴船神社へ下山。
 半日で終了するのが「ウラヤマ徘徊」の妙味。
 貴船神社で御神水をガブガブ飲む。うまいね。
 酒のようにうまい水を飲んで、帰宅へ。

 

 付記。300回目。日常を淡々と見つめ、綴っている。製作者、管理者の楢木祐司さん、感謝。おかげだ。
(3月22日)

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| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 14:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
ひとりひとりの憲法――永井葵さん、塩田敏夫さんの3月例会へ、ようこそようこそ(その2)

 永井葵さんは、縁あって、高校1年生のときから、ホームスクール(家庭学校)へ来ている。大学になっても、参加してくれている。私のことを「おっちゃん」と呼ぶのも、おもしろい。
 パンダ、ピアノ、散歩が好きという面もあれば、「たったひとりの自分を生きる」という面もある。
 その永井さんを座の中心にし、塩田敏夫さん(毎日新聞)や私も感想意見を述べ、参加者の思いを紡いでゆきたい。ひとりひとりの憲法への思いを紡いでいきたいね。
 いま、政権担当者たちは「謙虚に、真摯(し)に」私たちを馬鹿し、無視している。私たちはもっともっともっといのちを潜(くぐ)らせ、声を出して行こう。
 永井さんのメッセージだ。
 「いまの世の中ではみんなの声、とくに小さなひとたちの声――子どもや老人、障害のあるひとの声―がかき消されて、届いていない。ほんとうに困っているひとに手が差し伸べられていないように感じる。私もその小さなひとたちのひとりである。少しでもほんとうに大切なものを守りたい」。

   2018年3月例会
3月25日(日)午後2時〜4時半。
論楽社(左京区岩倉中在地町148、TEL075-711-0334)。
永井葵さん(京都精華大学の2年生)と塩田敏夫(毎日新聞記者)と私(論楽社)の座談会「ひとりひとりの憲法――それでも私たちはまだ負けてない」。
参加費1000円(要申し込み、論楽社といえども私宅なので必ず事前に連絡を)。
交流会5時〜7時。自由カンパ制(参加自由)

 3月25日(日)、ようこそ、ようこそ。
 岩倉川の桜を眺めながら、論楽社へ、ようこそ、ようこそ。
 次は4月22日(日)、斉藤貞三郎さん(毎日新聞)。ハンセン病の家族訴訟について、学びたい。

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| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 11:06 | comments(1) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第299回)朝の光を浴びながら

 次のような算術(計算)瞑想をしてみるのも、おもしろいかも。
 私自身がどうやって生まれてきたか、についてだ。
 もちろん私だけの話じゃない。AさんもBさんも、あらゆるひとが同じだ。全く同じである。
 男と女が出会って、新しいいのちが生まれ、育まれていく。このことだ。
 私が出会う父母は2人。父母の父母つまり祖父母はそれぞれで、4人。同じようにその父母の曽祖父母が8人。
 このように先祖(祖先)を遡ってみるんだ。
 倍、倍……と掛けていく。
 16人、32人、64人、128人、256人……と行く。
 10世代遡ると、なんと1024人。小さな町のような人口。
 1世代を30年間とすると、300年だ。いまから300年前、江戸時代、新井白石のころだ。
 同じように、さらに遡る。
 10世代分さらに遡ると、その数が105万人となる。仙台市の人口に匹敵。
 いまから600年前は室町時代、世阿弥のころ。
 もう10世代分をさらに遡ってみれば、スゴイ。計算間違いでなければ、10.8億人。
 いまから900年前の平安時代、白河上皇のころだ。
 いまはもう、止めよう。
 (地球や宇宙の歩みからすれば)わずか900年でも、これだけの男女が生きて食べて恋をしたことによって、私という存在に至っていることになるではないか。
 そうして、次のような効果を内的に実感できる。

 A. それぞれのひとがそれぞれに万世一系であることが実感できるし、それぞれが水平で対等であることも実感できる。
 B. 日本のみならず、沖縄・台湾・朝鮮・中国の東アジアとすべてつながりあっているのが実感できる。みんな、兄弟姉妹同朋であることも実感できるのではないか。
 C. その同朋の中には立派でユーモアのあるひともいれば、他殺自殺戦争死者にドロボーうそつきもいるんだということも実感できる。

 心さみしいことがあると、この算術瞑想をしてみる。わずか5分間で、何かが実感できる。
 親子兄弟姉妹といっても心にすき間風は当然ながら吹く。バラバラだ。でも、どこか最終的には同朋なのだ。いっしょなのだ。たとえどんなひどいひとと思っても。
 朝日を浴びるひととき、いままで出会ってきたひとたちの顔(表情、声、姿)を思い起こす。
 およそ150人。半分はこの世にいない(でも私の中にはいる)。
 私がそのひとの顔を思えば、そにひとと改めてつながりあうことができる。
 その数がゆっくり増えていく。死者に限定したほうがいいかもしれないけど、瞑想中、生死を分別することもできない。あるがままにやっている。
 つながりあって支えていく「あみ目」の相互依存的連係生起の広大深化のありように、ただただ頭を下げる瞑想。
(3月15日)

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| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
ひとりひとりの憲法――永井葵さん、塩田敏夫さんの3月例会へ、ようこそようこそ(その1)

 日本国憲法9条を白木の箱に入れたがっている人がけっこういる。
 現段階においては、9条に何も足さない、9条から何も引かないのがまずはいいと私は考える。
 「外国軍を駐留させない(=植民地になってはいけない)」という第3項を入れたいとも願う。
 しかし、山本太郎参院議員とか何人かしか頼りになる議員が現在のところいないので、「まずはいまのまま、足さず引かず」がベストと思う。
 運動はしない。しかし、縁があれば、私は話す。しゃべる。語りかける。人生をかけて、話していこうと考えている。
 すると、聞き手がひとり現れた。ホームスクールの生徒の永井葵さんだ。
 すると、永井さん、私の思いを越え、「新しい憲法草案」を自らつくり、語りはじめている。
 永井さんのいのちの原石のままに、綴りはじめている。
 何かが生まれ育ちはじめている。
 永井さんの許可をとって、「草案」を初公開してみる。原文のママ、記す。

 たとえば、「今の世の中に生きている人達は次の世代に生まれてくる子供達が笑って暮らせる社会を作るよう努力しなければならない」。
 たとえば、「この国において生きている人間は全てたったひとつのいのちあるものとしてあつかわなければならない。ここでいう人間は全てのホモサピエンスのことである」。
 たとえば、「そしきのありかたや決め事はそれを使用する者全員が考え、話し合って決めていかねばならない。特定の人達の独断で決められる事があってはならない」。
 たとえば、「話し合いや会議の際には情報の公開をためらわない誠実さと相手がだれであろうと対等に対話する公平性が必要不可欠である」。

 きっと、いのちのままに湧いてくるんだ。
 永井さん、いまここの自らのいのちに向って、「何でやん?」といったん問うと、いま、言葉がどんどん湧くんだろう。
 こういう言葉を受けると、まるでいまからこれから、社会というものが生きられ、つくられていくような思いになるね。
 まるで敗戦直後の焼跡の上に広がる青空を見るような気分に私はなる。
 永井さんの思いや言葉はもちろんのこと受けとめるけど、その言葉たちが向かう方向性の今後を大切にしたいと思う。哲学や思想は(目指す)方向だ。
 その永井さんをメインにして3月例会を開く。
 3月25日(日)、聞き手として塩田敏夫さんと私がなり、論楽しながら、座談しながら、参加者みんなと展開できたら、うれしい。
 ようこそ、ようこそ。

   2018年3月例会
3月25日(日)午後2時〜4時半。
論楽社(左京区岩倉中在地町148、TEL075-711-0334)。
永井葵さん(京都精華大学の2年生)と塩田敏夫(毎日新聞記者)と私(論楽社)の座談会「ひとりひとりの憲法――それでも私たちはまだ負けてない」。
参加費1000円(要申し込み、論楽社といえども私宅なので必ず事前に連絡を)。
交流会5時〜7時。自由カンパ制(参加自由)。

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| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第298回)キジムシロ

 3月に入り、気温が乱高下している。
 日変わりで10度も上下している。
 日差しの光が輝きをしだいに増している。
 冬にはもう戻らないね。
 やっと春が来た。
 ちょうどいまごろ、岩倉川沿いにキジムシロが決まって咲く。
 日だまりに、まっ黄の花をつけ、ほんの少しだけ群生している。
 キジムシロ。「雉(きじ)の筵(むしろ)」。
 私が最も早く覚えた野草のひとつ。
 そうして、出会うと、心が最も落ち着く野草のキジムシロ。
 そう、心が落ち着くこと。
 このことが私の心に必要である。そのことを私がいちばんよく知っている。
 キジムシロの黄花をゆっくり眺めること(ミヤマキンバイに似てるかも)。
 冬木のケヤキやコナラをしずかに見上げること。
 春の先がけとなるコブシ、キブシの開花を心の中で拍手すること。
 たとえば、これらのことを、いま書くだけでも落ち着いていく。
 何かの苦が私にいまある訳でない。
 そうじゃあ、ない。そんな大きな苦はいまはない。
 別の言いかたをしよう。
 もっともっと、私自身を私は受けとめたいのである。
 「受けとめているじゃないか」という反論もあろう。
 もっと、もっと、いわば貪欲に自分自身を大切にしたいと思うのである。
 ふと、いま、思うんだ。
 私はさまざまな愚民政策の餌食(えじき)にされつづけている。
 私たちは学校教育(無意味なことに意味を持たせる)やTV広告代理店文化、政府政策のスローガン・プロパガンダの罠(わな)にかけられつづけている。
 本ブログでも、必死のパッチで「ひっかかるな」「バカにされるな」と訴えてきたと思う。
 これからも言うことは言っていくけども、「Aは阿呆」といくら批判していても「そんなん自明のことやん」という内部の声がいつもするのである。阿呆に阿呆と言っても自同律の不快。凡夫の私が投げかける言葉によって自省するような阿呆はどこにもいない。
 それよりも、もっともっと自分のいのちが安心(あんじん)し、落ち着いていくことを綴っていこうと思うのである。
 愚民政策は転写(転移)する。憑依する。外部から安易に乗り移り、仮面となる。引っ剥(は)がそうにも剥がれない。次々に転写されてくる。仮面を脱いでも脱いでも間に合わない感じ。もう7年たつけど、とくに3・11以降、必死だった。
 けれども、本来の自分自身に戻ることにする。
 もっともっと、地(じ)の私自身のいのちを見つめていかなければならないと思うのである。私自身のことは私しか扱うことができない。もっと私を深く掘って、そういう方法によって、他のいのちとつながりあっていけばいい。たとえ、「何や、深く掘ったのかよ、以前と全く同じや」と苦笑されたとしても。
 キジムシロがさかんに咲いている。
(3月8日)

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| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
ときどき連載コラム「いのち――その断章」(第52回)光の花束

 中平順子さんから紙芝居『すてきなともだち』(童心社、本体1900円、昨年12月刊)をいただいた。
 インドの昔話。世界最古の子ども向けお話集(パンチャタントラ)。その再話だ。
 人間という存在は、自らの分別(自我分別)によって、いまも罠をかけ、他の動物の仲間を苦しめ、自らも窮地に陥っている。
 『すてきなともだち』において、ふだん人間に苦しめられているシカ、カラス、ネズミ、カメが、それぞれの特長を生かし、スクラムを組んで、人間の分別に立ち向かっていく。絶妙に知恵、力を出しあうことが、読み手の心に、春のようなあたたかい光の花束となって、励ます。
 シマウマだって、ライオンに対し、いち対いちで立ち向かったら、食い殺される。20匹のシマウマが包囲し、等距離を保って気迫で追いつめれば、シマウマには後足の強力な蹴りがあるし、ライオンは逃げる。
 光の花束をつくることは、いまだに強者を弱者が落とす知恵。
 だから、強者は「団結することは危険思想」「過激思想や」と弱者の分断をはかろうとしている。いつも。
(3月1日)

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| 虫賀宗博 | いのち――その断章 | 11:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
祈りの音――中村徳子さんのインド音楽レポート

 中村徳子さん(以下、とっこさん)の「空の青さが音楽」のレポート。
 サブタイトルで記していた「インド音楽入門の入門」。「インド音楽って何?!」という感じが、ざっくり伝わったんじゃないか。
 とっこさんは自らおしゃべりしながら、タンブーラーを常に爪(つま)弾いていた。爪弾きながら、いろんなことを話してくれた。通奏低音のように、全編鳴り響いていた。その音が1週間たったいまも、快く響いている。
 とっこさん、アリガトー。
 「音のひとつひとつに神さまがいます」(とっこさん)。
 この言葉も私は頷けた。
 もともと朝の光にも夕の茜色にも星の瞬きにも、私は音楽があると思ってきた。
 世界の木々にも川の流れにも海からの風にも音楽があると思うし、とっこさんの「サレガマパダニ」(ドレミフャ…と同じインド音階)が「体の血液の中へ入れて」と言ったのも頷けた。
 もう少し別の言いかたをすれば、その音というものは、たとえば眠りという形であり、願いという形であり、母という形であり、許しという形であり、エネルギーという形であり、間違いという形であり、空腹という形であるということだ。
 目覚めていても寝ていても、たとえ死んだとしても、つねに光がかがやき、手をとり、心の中にいる――ということだと思う。
 その音、光を何度も何度も迎え入れ、挨拶しつづけていくことが、生きるということなんだ。
 私はそう思って、とっこさんの話を聞いていた。
 毎日毎日、太陽の光を受け、新鮮な食をいただき、呼吸していく。その光を受け、新鮮な食をいただき、呼吸していく。その光、食、呼吸の3つにこそ、脳内を活性化させる秘訣がある――とっこさん、言っていたのも忘れられない。
 アリガトー。
 散歩中にこの1週間、声を出してみる。「上ずみの声が出た後、ほんとうの声が出るから」と、とっこさん、言っていたね。あんまり意識して声を出したことのない私の自信なさげの、少し枯れた声の後で出てくる「ほんとうの声」に出会いたいと思っている。まだまだ、だけど。
 とっこさん、ありがとう。この上なく大切なものをいただいたと思う。
 感謝感謝。
 ワシらの人生に音楽を。深く耕された音の世界を。誠実さ、正しさでなく、音のふくよかな楽しみを。

 

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| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 11:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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