論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
出会いと歩み出し――稲村守さんの11月例会へ、ようこそ、ようこそ(その2)

 11月5日(日)、京丹後へ行った。米軍のレーダー基地の存在に「いやだ」と声を出すために。
 前泊博盛さん(『本当は憲法より大切な「日米地位協定」入門』のひと)の話を聞いたあと、峰山町の町内を1時間、デモした。
 黄昏(たそがれ)た町だ。町のひと誰一人、歩いていない。その町を参加者600人が全く静かに歩く。
 そのデモの列の中に、稲村守さんがいて、自然といっしょに歩くことになった。いろいろ話して歩くって、おもしろい。
 私は62。稲村さんは65。
 稲村さん、60で定年。再雇用され、その期間も、もうすぐ終了。
 2人とも黄昏だ。けれども、夕焼けがエネルギーをためたかのように、いまここにおいて発色している。言いたいこと、伝えたいこと、語り下したいことが朱いモミジの葉のようにあるんだな。きっとね。
 11月26日(日)、ブラリと来てください。おしゃべりして、交流しよう。
 ようこそ、ようこそ。

  2017年11月例会
11月26日(日)、午後2時〜4時半。
論楽社(左京区岩倉中在地町148、TEL075−711−0334》。
稲村守さん(京都総評)の「出会いと歩み出し」。
参加費1000円。要申し込み(私宅なので、事前に申し込みを)。
交流会5時〜7時。参加自由。自由カンパ制。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
教育って何だ――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その10)

 日本の学校の教育の問題について、「ボルト」と題して書いた(ほっとニュース11月6日号)。それは確かな思いだ。
 それでもなお、ひとにとって教育というのが必要であり、必須であることも書き添えないと正確でない。そう思う。「教育って何だ」ということを改めて書いて、押さえておきたい。
 両親以外の誰か、その人間味あふれる他者との出会いによってしか、ひとは人間になっていくことができない。そういう精神的な営みが教育そのものなんだ。
 そのことはどれだけ強調してもしきれないものとして、いまも存在しているということである。
 「生きるとは何か」「ひとを思いやるとは何か」「勇気を持つとは何か」。
 それらのことは、言葉で説教しても伝わるものではない。その生徒と教師との関係性の中に生きることでしか伝わらない。
 それはその教師が体得し、得心していることしか生徒に伝わらないという原則があるからだ。
 ひとは愛されたようにしか、ひとを愛することはできないのである。
 この教育という行為は全人類、どこの部族であろうが、いまも行われている。そうして愛、慈しみに目覚めていくのである。
 その原理に気づいた教師によって、少しは日本の学校教育でも実践は行われつづけている。それは確かだ。私は私で、ホームスクールで小さく、小さく実践している。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第282回)手放し百千万発

 手放し百千万発――という言葉がいいね。
 いまここの心に沁みるな。
 櫛谷宗則さんの『生きるなかに抱(いだ)かれて』(坐禅会の法話記録)に出てくる言葉。
 友人のFさんから『共に育つ』という冊子が送られており(Fさん、ありがとう)、その16号があまりによかったので、面識のない櫛谷さんに礼状を出した。
 そうしたら『生きるなかに……』が送られてきた。ありがたいな。
 手放し百千万発である。
 手放しつづけるということである。
 けさ星空に手放す。いまモミジの紅葉に手放す。いまここの朝焼けの輝きに手放す。
 オレオレの囲いをパアと手放すのである。
 こういう原稿をブログに書いている自己自我の私も書き終えたら、パッと手放すのだ。
 きのう手放したからといって、手放しの貯金ができるわけでない。
 きょうのいまここで手放さなかったら、自らの苦の種子を蒔いてしまうことになる。
 方法は結局どれでもいい。ひたすら念仏でも、ひたすら座禅(只管打坐)でも、ひたすらブッダの瞑想でもいいんだ。何でもいいんだ。
 「仏教というのは、いま生きているここに、そういういのちの世界を、浄土を展開させて生きようとするのが狙いです。それを純粋にやるのが坐禅です。本来のいのちの浄らかさを持って坐るなかにその世界に抱(いだ)かれて、いのちがいのちに安らうという、ただそれだけの坐禅です」(同P.8)。
 この「坐禅」というのを「念仏」と言い換えていいと思う。「念仏はブッダ以前の仏教」(曽我量深の説)。おもしろい説と思う。同じなんだ。
 自灯明、法灯明を頼りとして、自らの本来性(本質性)を回復させながら、さまざまな自らの煩悩を背中の真ん中に背負って生きていく。
 念仏坐禅したところで得るものも悟るものもない。
 念仏が念仏している。禅が禅している。それだけである。
 生き生きしているいのちの息吹きの呼吸が禅。(アミーダからいただいた)このいのちがありがたく大切だという声が念仏。
 これらの繰り返しを生き、手放し百千万発生きているなかで、私が私を生きていったらいい。
 オレオレの私でない。本来の私である。それを生きていく。それだけ。
 良寛が言っているではないか。
 「仏は是れ自心の作(な)るもの。道も亦(また)有為に非ず」と。――「仏はこの自らの心がなるものだ。道も作為とは関わりのないものだ」(入矢義高・訳)。
 自らの心であるけど、アミーダのさずかった心。作為なんて考えるだけで、「オレがオレが」の鎧を着てしまうではないか。
 鎧を着た信心なんて、学校みたいにヘン。そんな信仰だったら、ないほうがいい。有害無益。
 鎧を着たひとに限って、ひとの信心のチェックをするもの。是非のみで決めつけるのはおかしい。間違い。
 これらのすべてに、手放し百千万発。捨てる。放つ。ポイッ。
 朝に夕に、手放し百千万発。捨てる。放つ。ポイッ。
 自らが生きる方法として、手放し百千万発。捨てる。放つ。ポイッ。
 いま、人生の黄昏(たそがれ)になって、微光のように「み光、み心のままになしたまえ」という祈りが生まれている。コレが何教なのかも私にはわからない。
(11月16日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第281回)道を聞く

 内からの声を聞きたい。
 危機になればなればなるだけ、聞きたい。
 遠く外部からの呼びかけ声のようで、実はきっとすべてが、きっと内部からの声だ。どんなに小さなかすかな声、ささやき声をも聞きとって、自らを問うてゆきたい。
 内部のささやき声。その声、ほんの少し記録してみる。この1週間分をメモしてみる――。

 

   踏絵
 映画『沈黙』(2016年、M・スコセッシ監督)を京都シネマで11月2日に見る。
 40年前の下宿で遠藤周作(以下すべてのひとの敬称略)の『沈黙』(いまは新潮文庫)を読んでいたのを思い出す。
 20年前に井上洋治(『法然――イエスの面影をしのばせる人』筑摩書房、を書いた神父、遠藤周作の親友)を知り、その『法然』をしきりに想う。
 砂漠の遊牧民の宗教と言われているキリスト教を、もっと緑の湿潤の宗教と捉え直していた遠藤周作と井上洋治である。
 キリスト教そのものはいざ知らず、イエスはやさしい。この世で居場所のない、小さくさせられたひとに限りなくやさしい。
 主人公ロドリゴは踏絵をふむ。そのとき踏絵のイエスが声をだす。その声がロドリゴの内部に響く。映画において、はっきりと声で「お前の痛みがわかる」「踏むがよい」とイエスが言うのである。
 友人のHさんは「踏絵をふんだところがはじまりだよね」と言っている。
 ほんとうにそのとおり。私もそのとおりだと思う。
 弾圧。絶滅。そんな戦いをしかけられてのしんがり戦。ロドリゴは拷問されている信者を救うためにも踏絵をふむのである。
 踏絵をふむひとがいちばんつらい。そういうひとにこそイエスは語りかけていく。「内的に崩れてしまってはいけない。そのままでいい」と。
 「そこから始まるんだ」という声がする。

 

   異常気象
 ペシャワール会から「週報」が届く。
 中村哲がアフガニスタン水路のモデルとした「山田堰」のある福岡県朝倉市が今夏豪雨で大きな被害を受けた。その被災地を見た中村哲が西日本新聞のインタヴューを受け、その記事が「週報」に同封されていた。
 「(豪雨の原因は)地球温暖化だ。しかし温暖化を止めることは経済活動を落とし、自分たちの生活を危うくするため多くのひとは意識しないようにしてきた」(西日本新聞、2017年8月20日)。
 ほんに、そのとおり。経済発展を止めないかぎり、続発する異常気象は収まらない。すさまじい豪雨。その反対の異常な渇水。猛暑。10月の超大型台風。そうしてとんでもない酷冬。これらはいまやすべて通常気象。異常気象ではない。
 水俣病があっても、原発事故が起きても、全く経済発展信仰を止めない。つまり、これは戦争経済だ。戦争経済依存症だ。どうすればいいんだ。
 「日本は豊かになったようで貧しくなった。豊かさとは何か見直すこと。目先の利益を追い掛けることをやめない限り、被害は続いていくだろう」(同上)。
 平和と経済発展(戦争経済)は両立しない。徹底的に後者だけを追求していけば、土台がガタガタになり、きっとみんなが貧乏になり、国じゅうが荒廃してしまうのである。「おまえのせいだ」と犯人さがしなんかをして、ズタズタになっていく。
経済成長を止めればいいんだ。

 

   道を聞く
 宇沢弘文さんを読んでいる。最近のこと。
 『人間の経済』(新潮新書、2017年)を11月3日の朝読了。本書の一番最後のページ(P.184)にこんな言葉があり、心に沁みる。
 「“There is no wealth, but life”という言葉を、お寺で修養していた私は『富を求めるのは道を聞くためである』と訳し、経済学を学ぶときの基本姿勢として、これまでずっと大事にしてきました」。
 富は必要だ。ブッダだって、そう言っている。ただし、手段である。手立て、方便である。収奪してきたような富では心が荒廃。そうではなく、「道を聞いて、いのちを充足させるのである。
 それが富の目的。いい言葉。
(11月9日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 16:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
出会いと歩み出し――稲村守さんの11月例会へ、ようこそ、ようこそ(その1)

 11月例会は稲村守さん(京都総評)。
 11月26日(日)の午後2時から。これはいつものとおり。
 ようこそ、ようこそ。
 稲村さん、塩田敏夫さんの講演会が縁で、1年半前に出会った。
 山形の高校時代に、むのたけじ・岡村昭彦との対談集『1968年――歩み出すための素材』(三省堂新書)に出会う。
 出会いに感化され、自ら歩み出す。
 京都へ出て、ある社会主義者に出会い、京都総評へ。労働運動の中へ。以来43年。
 その稲村さんに、個人史の一端、労働運動史の一こまを語っていただきたい。そう思う。
 私は労働組合は社会的共通資本のひとつだと思っている。
 やっぱり、シマウマがライオンに一対一で向かったら、敗ける。一頭のライオンに何十頭のシマウマが等距離を保ってライオンを包囲し、追いつめていかないと絶対に勝てない。
 しかし、いままで社会主義運動にも労働組合運動にも私は縁がなかった。
 いろんなこと、聞きたいなあ、と思っている。
 11月の最終日曜日。ようこそ、ようこそ。
 待っている――。

  2017年11月例会
11月26日(日)、午後2時〜4時半。
論楽社(左京区岩倉中在地町148、TEL075−711−0334》。
稲村守さん(京都総評)の「出会いと歩み出し」。
参加費1000円。要申し込み(私宅なので、事前に申し込みを)。
交流会5時〜7時。参加自由。自由カンパ制。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
ボルト――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その9)

 学校の成績って、そのひとの人格人柄いのちと全く無関係。なのでそのひとの能力に関連づけてしまい、「できる、できない」と言うひとが多いのは悲しい。
 日本では義務教育(小学校)というものが軍隊のそれを真似てつくられた。日本以外の欧米の近代国家の多くもそうだ。
 とくに日本において、たとえば歩き方からして訓練させられた。江戸時代まではワシらはナンバ歩き(右手と右足を同時に出す歩き方、コレ、なかなかいいんだ)。それを無理やりに、いまの歩行(右足が出るときに左手が出る、という)へ、と変更させられた。なんで歩き方まで干渉したんだろうか。欧米式軍隊をつくろうとしたからだ。
 欧米では学校の入学式なんてない。日本ではまるで軍隊の入隊式のような入学式が挙行されつづけている。端から、日本の学校はヘン。
 「起立」「礼」「着席」も、「回れ右」「なおれ」も、言うまでもなく、すべてが軍隊式だ。いまだにやってる。意味の全くないことをやらされ、「意味を求めてはいけない」と訓練させられるんだ。
 小学校で何よりも重視されたのは、一定の時間、着席していることだ。読み書きそろばんよりも、農民を工員(工場労働者)へ変えるため、教師の指示どおりに「じいっとしていること」を求められた。
 軍隊や工場の組織の部品として生きることがいまだにひたすら求められたのである。
 将来役に立たなくてもいいのである。それが数(算)、理、社、英、国の五教科なんだ。他の料理、演劇、農業、映画、宗教……といった役に立つ教科はない。言ってみれば、つまらんことをつまらんと思いながらも、やることを要求される。日本の学校はそうなんだ。
 以上が学校についての基本の説明。
 つらいけど、わかって。
 でもねえ、私自身の体験でも、イヤだったな。つらかった。いくらボルト扱いされても、オレたちは人間なんだ。抜け落ちたボルトとしても、ワシらは熱いいのちなんだ。そうして、いまここを生きているではないか。
 いのちを耕して、学校へも立ち向かっていってほしい。「イヤだなあ」と思う心を忘れないで、抵抗していってほしい。
 イヤな気分を手放して、いのちをもっと耕して、ニコニコとほほえんで生きていってほしい。
 軍隊方式がいまだに変革できない。変革したかったけど、できてない。ゴメン。まだ、こんな学校はつづくだろう。でも、めげないで生きていってほしい。つらいけど生きのびてほしい。劣等感なんて、絶対に持たないで。不要よ。耐えて。私はヨコにいる。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 21:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第280回)冬の天

 ふと思う。
 なぜ言葉に心をこめ、気持ちをこめて発しないのか。
 なぜ心をこめないことが理性的なんて言うのだろうか。
 悲しかったら、悲しいと言おう。美しかったら、美しいと言おう。
 バタバタと暮らす、ある6日間の記録。心のメモ――。

 

  10月23日(月)
 総選挙の結果が悲しい。
 「みっともない憲法ですよ」と言う現首相が、またまた圧勝した。
 悲しみが深い。
 どのひとも自分が大切だ。例外は誰ひとりない。
 ただし、どのひともすべて「わが身ファースト」だと、社会は動かなくなる。
 銭湯に入っていても、地下鉄で居眠りしていても、きっと残酷なことが起きてしまうことは間違いなし。「アメリカファースト」「都民ファースト」では立ち行かなくなってしまうのも間違いなし。
 「私たち」「オレたち」の自分以外のひとびとのことを考え、社会全体が乗っている船の安全のことをも考えるひとが必要なのである。でないと社会世界全体が立ち行かなくなるのである。
 いまが勝負。一市民として、小さく、声を出していくとき。「みっともない」と言う現首相たちへ、そうして隣国のひとたちへ、世界で苦しんでいるひとへ、「日本国憲法9条こそ、国是である。平和を求める。平和をつくるため、努力したい」と言っていこう。

 

  10月26日(水)
 ひょんなことで街へ出る。本屋に寄って、ひょんなことで、東直子さんの児童文学『いとの森の家』(ポプラ文庫、2017年)を手にし、求める。
 東さんって、全く知らない。何気なく手にし、福岡・糸島(才津原哲弘さんの住所)が舞台――なんて、裏表紙に書いてある。糸島の「いと」なんだ。
 思い切って、買って、読んでみた。おもしろかった。
 実在の白石ハルさんが主人公。多くの死刑囚と交流していたひとなんだ。こんなひとがいたんだね。
 ハルさん、労働者として米国へ渡り、戦時中の日系人収容所に入れられ、苦難を生き、故郷の糸島に戻り、森の家で暮らしている。
 死刑囚の俳句が出てくる。
  冬晴れの天よつかまるものが無い
 やさしさに満ちているのじゃなく、「つかまるものが無い」んだ。うーん、つらい。しかし、そこが帰っていくところ。大丈夫だ。
 「タイムマシンが使えたら、時間をさかのぼって絶対にやめろって自分に言いにいくのに」(同P.140)。タイムマシンがあったら――。

 

  10月28日(土)
 尹東柱(ユン・ドンジュ)の記念碑の除幕式がある。宇治の宇治川の上流、志津川と合流する所に、碑が建てられた。京阪「宇治」駅から、私の足で歩いて25分の距離。
 同志社大学留学時代の尹東柱、宇治川沿いへハイキングをし、友人たちと飯盒炊さんをした。請われて「アリラン」を歌っており、天ヶ瀬の吊橋前で生涯最後の写真をとっている。その直後に逮捕されているので、そんな「敵のいないひととき」が直前にあって、よかったと思う。
 その地に「わたしの道はいつも新しい道」(「新しい道」の詩が刻まれ、韓国と日本の花崗岩によって碑が建てられた。
 日本と韓国・北朝鮮は、永遠の隣人である。隣国である。一刻の感情で殺しあってはいけない。タイムマシンはないのだから。
 日・韓・朝のひとたちが訪ねつづける名所になってほしい――。
 午後に大阪の高槻で映画『世界でいちばん美しい村』石川梵監督、2016年)を見る。見たかったのである。
 ネパールの地でも2015年に大地震があり、9000人の死者を出した。そのひとつの村においても、日常の風景が破壊されたけども、その村で生きて死んでいったひとたちとの心の交流の儀式をやりこんでいくことによって、人々が再生していく。その姿が丹念に記録されている。
 死者たちを深く弔い、「ありがとう」を伝えることによって、生者たちは再生していく。
 死者たちは生者たちに「生きよ、生きよ」と言っている。伝えている。
 その声は無音で、満天の星空のまばたきのように降ってきている。
 ちょうど9条のように。「生きよ、生きよ」と。
(11月2日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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