論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを味わう」(第68回)寒露の庭――植物に脳がない、でも根がある

 縁あって出会っている、いまの家の庭の木々に、どれだけ助けられ救われているか。
 私はそう思っている。
 植物たちに脳はない。けれど、根がある。根が脳。根の先の根毛などが必死に思考し、「根の周りのバクテリアをいかに活発化させるのか」と思考し、栄養素を与えているんだ。自らの本体の幹や枝葉を育てる以上の(きっと2倍とか3倍とかの)光合成を行って、地下のバクテリアや周りの動植物に贈与しているんだ。結果的に植物たちは自らが生きのびるための、スゴイ思考をし、そうして確実に周りの鳥、蝶、トンボ、カメムシ、トカゲに、そうして私のような人間までにエネルギーを与えつづけている。植物たちだけが地球上で生産している。その他の動物は消費だけしかしていない。人間は破壊戦争まで平気でやっている。私はそう思っている。
 たとえば、秋分のころに咲くヒガンバナは地下茎によって繁殖していく。なのに、なぜか花を付け、花を咲かせる。ハチに蜜なんかを吸わせているんだけど、「何のためか」はわからない。慈悲なのか。全くわからないけど、濃い赤色の花が咲き、喜びのエネルギーを動物たちに与えてくれる。
 その贈与のエネルギーは広大で深いんだ。
 話を庭に戻す。
 いま、二十四節気(せっき)で言う寒露のころになって、キンモクセイ(金木犀)のオレンジ色の花が咲く。満開。香り立っているね。
 酷暑のせいか、二週間も遅い。
 でも、咲いた。
 キンモクセイは木陰を好む。庭に2本あって、1本は大きなモッコク(木斛)の下にあって元気なのに、もう1本はモクレン(木蓮)の下にあり、そのモクレンが枯れ始め、光が直接当たって、少し元気がない。この木の枝に、この1年ヒヨドリがいつもいる。ただ乗って遊んでいるだけだけど。モミジ(紅葉)をせん定しないで木陰を保っておこう。
 ボケ(木瓜)が猛暑のせいか、疲れて、葉を落とした。「枯れたか」と思っていたら、春先のように新葉が数枚出てきた。
 サンシュユ(山茱萸)が赤い実を付け、落としている。時々その実を拾う。焼酎につけよう。
 カキ(柿)は今年の実はゼロ。生(な)り年ではないけど、ゼロは珍しい。見事な落葉の数々を残して。
 サザンカ(山茶花)が咲き始めている。二輪。咲いている。マキ(真木)の下に、さくさくと静かに白く咲いている。サザンカの場所は、いつも静寂――。
 いまの庭に出会うまで、せん定なんかしたことがなかった。以来32年、我流で行っている。
 露の下に草木が育つことを観察していて知ったので、草はなるべく抜かないようにしている。無農薬自然園、雑草の庭。伸びた枝と伸びた枝とが当たるところを主としてせん定している。
 せん定しながら、夕日を眺めているときが至福。
 木々の間を通る風を受けながらいまここを生きていると感じる。植物から深いエネルギーをいただいている。植物に守られている。

 

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:13 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう(第67回)「これが国なのか」――韓国キャンドル革命

 関心を持って、見守っているつもりでも、いたるところで、何気なく情報が切れている。絶たれている。
 それが私たちの日常である。肝腎なことが抜かれたりして、伝わってこない。そんなこと、多いのではないか。
 そう思いながら『写真集 キャンドル革命』(コモンズ、2020年1月、以下本書とするね)を何度も読み直しているのである。
 ここまでの革命とは知らなかった。恥ずかしい。
 本書は2016年10月に韓国で抗議のろうそく集会として始まったことが熱を帯び、ついにキャンドル革命となり、大統領弾劾(クビにすること)を実現していった半年間のドキュメント。
 金宰鉉(キム・ジェヒョン)さん(1985年生まれの35歳)の写真集なんだけど、金藝璱(キム・イェスル)さん(1986年生まれの34歳)の解説文が入り、年表も入り、こんな数字も入る。実に立体的だ。

 

16852000人(23回のキャンドル集会のべ参加者総数、なんと1700万人)。
0人(逮捕死者数)。
4パーセント(歴代大統領の中で支持率最低、2016年11月25日)。
マイナス17度(2017年1月14日の体感温度、最低気温マイナス11度)。
2321000人(ソウル光化門に170万人が集まった2016年12月3日の全国で最大参加者数)。

 

 こんなスゴイことが隣国で行われていたんだ。
 びっくりしている。
 一日の参加者で232万人って、スゴすぎ。世界最大の規模だね。
 京都で反原発集会に3000人。「でもよく集まったねえ」と思ってる。そんなレベルでは全くないね。
 そもそも何でこんなにも怒りが湧き上がったのか。
 短くまとめると、こうだ。
 朴槿恵(パク・クネ)前大統領の親友に崔順実(チェ・スンシル)という呪術師がいる。その父も呪術師で新宗教の永世教の開祖。つまり、父娘二代で、これまた朴正煕・朴槿恵父娘二代と密接な癒着関係を半世紀に渡り持っていたのである。
 国家の公務の秘密も流れ出ていた。サムソン、ロッテ、ハンファの各財閥への崔順実の介入もあり、私物化を生んでいったのである。
 その象徴が崔順実の娘の大学への不正入学・不正単位取得が発覚したこと。その娘が「金も実力なの。能力がなけりゃ、あんたの両親を恨みな。持ってるうちの親のことをつべこべ言わずにさ」とFacebbokに書き込んだこと――。
 「これが国なのか」と思い、みんながみんな、心に火を灯しろうそくに火を点けたんだ。
 古来権力者は自ら権力から降りることはない。人間としての共感能力の欠如の主(ぬし)と化した「ただのひと」への物理的道義的な威力が引きずり隠すのである。
 死者逮捕者数ゼロが象徴している。新しい時代の、新しい革命であったのだ。
 非暴力不服従革命の教科書の本書である。310ページ、1.1キロの大型本に向かい、何回君は喚声を上げるか。
(10月8日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:18 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここで味わう」(第66回)つるべ

 立憲民主党が合流した。
 何かの感慨が湧くのではない。
 幻の希望の党の結成騒ぎ以前の数の議員が元に戻っただけのこと。相変わらず党首は「直ちに健康への影響はない」発言を原発事故当時に連発していたひと。私には印象が良くない。
 同党は野党なのか。野党ならば、もっともっと大きな声で「ワシらは政権を取ってこのことを為すんだ」と言ってほしいと思うのである。
 自民・公明の与党の、少なくとも3倍の声で訴えてほしい。与党と同じような言葉の質と量では勝負は決まっている。3倍4倍の圧倒的な言葉を生み出していかないと、勝負にならないのではないか。
 そういう声がする。自らの井戸水の中から湧く。現実のどの政党とも結(ゆ)えることのない私自身の野党精神なんだろう。
 何かを書いてみたい。。
 私が書くのは、政治政策以前の何かでしかない。その「何か」をほんの少し記す。次の3つだ。
 その1。
 「はじめに国家がある」「国家がいちばん、国家の命令には服従すべし」という呪縛が解けるように。そういう願い。
 国家といえどもひとつの社会でしかない。たとえば、沖縄という国家内部の大切な社会による日本国家への批判はあって自然。
 理不尽さは直そう。少なくしよう。当たり前のことを当たり前にしよう。そう思うのは普通。自然だ。
 なのに「国家に楯突くとは何事か。いかがなものか」と。なぜ批判を許さないのか。
 国家が間違いを犯すことはヤマほどあるではないか。いや、国家はミスするものである。
 なのに、「国家に文句言うヤツは日本の外へ出ていってもらおう」なんて言うひとがいまだに多い。
 自らの井戸につるべのようなものがないと、抜け出せないのではないか。国家というまるで底なしのような井戸から。
 批判がつるべだ。
 そのつるべを明治国家以前の坂本竜馬も高杉晋作も西郷隆盛も持っていた。
 なぜつるべを失ったのか。井戸の中の蛙で終わってしまうではないか。
 その2。
 国家を背負っているようなフリをするヤツにひたすら服従し、祖国は無残な敗戦を迎えた。今度は日本国家の上位者の米国米軍の指示をありがたく聞くようになってきた。
 つるべは失ったままに。
 原爆を2つも落とされているのに、世界でいちばん原爆を貯えて、イバっている米国に植民地のような扱いをされている日本である。
 日本は戦後に独立してからも米軍がいることを許し、「いてくれ」と頼んだ。冷戦下だったからか。じゃなぜ冷戦が終わっても米軍に帰ってもらわなかったんだ? 他国軍だぜ、米軍は。
 まるでマンガの『寄生獣』(岩明均)のような米軍。人間の頭部を乗っ取って、そのひとになりすまし、他の人間を食い殺していく寄生生物だ。
 その寄生生物のために集団的自衛権も秘密保護法も認めていった。
 つるべを失ったまま、日本国家+米国に立ち向かわねばならない。
 その3。
 失ってしまったつるべを取り戻すためには、小さく低く弱くさせられたひとびとの声を聞きつづけることだ。各地を歩いて現場の風を感じとっていくことだ。それこそが野党(ついでに言うと、これこそがジャーナリズム精神)。つるべに気づくことだ。
 あるものをなかったことにしないことだ。
 たとえば、いまからでも原発事故の現場に行ってみて、「どうするのが日本を救うのか」を決断したらいい。米国との関係も原発事故から、知恵が生まれてくる。それが野党精神。日本が自らの力で変革しなければ、孫子の苦労が深まるばかり。
(10月1日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 11:10 | comments(0) | - | - | -
ゆっくりと動きます――論楽社のこれから

 秋の白い光が穏やかに満ちています。
 野の道にはヒガンバナ、ハギがそれぞれ紅い花をつけています。
 その後、お元気ですか。
 論楽社、ゆっくりと動いています。
 コロナのこともあります。そうして私の年も65歳になり、終盤を迎えていることもあります。明子ともども、仕上げのようなものができたらいいな――。
 集いもしばらくは「毎月のよう」ではなく、のんびりと間(ま)をとって開きたいと思います。
 またお知らせいたしますので、その節はよろしかったら、参加してください。
 なつかしいAさん、Bさん、Cさんの顔が浮かびます。
 お会いしたいなあと思っております。
 それまでどうかお元気でね。お大切になさってください。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 12:55 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第65回)河野義行さん――野(や)であって野(の)のひと

 もう45年も経つか。当時、統一教会(原理教会)の被害に遭ったひとを、縁あって、知っていた。勧誘洗脳の方法の一端を知ることになった。それ以来、カルト宗教のえぐさをつらく思ってきた。
 なのにオウム真理教については、どこか避けてきたところがある。オウムの教祖の名の音(おん)が、私の知っているひとの名の音と同じだったことがその理由なのかもしれない。そんなどうでもいいことを、ふと思ったりする。
 森達也さんのを読んだりしてきただけで、何かピンとくることがなかった。きっとひとごとだったんだろう。しだいに忘れていった。
 オウム関係者の死刑執行が一斉にされ、「あったことをなかったことにはできない」とも思っているところに、あるインタヴュー記事を読んだ(2019年8月3日の朝日新聞、聞き手は塩倉裕記者)。松本サリン事件被害者の河野義行さんへのインタヴューが載ったのである。
 河野さんはオウムなるものにぶつかった。衝突した。ひとごとにできるはずがなかった。
 オウムなるものとはオウム真理教というカルト宗教であり、どこか同じ仕組みを持つ国家権力である。両者とも生身の人間を神格化させている。
 両者とも「私は正しい」と言い切る。「(信じていない)あなたは間違っている」と、これまた言い切る。
 しだいにアナタはヤツになり、「ヤツは敵、敵は殺せ」。問答無用で、言い切られる。
 オウム真理教は非合法の殺人を伴い、国家は合法の死刑と戦争を行って、ヤツを消す。
 死者8人・重軽傷者600人を出した松本サリン事件。河野さん自らも被害者、妻の澄子さんも14年後に亡くしている。
 なのに、長野県警からは「犯人はお前だ」「亡くなったひとに申し訳ないと思わないか」「罪を早く認めろ」と自白を強要された。県警からのリーク(漏れる)によって、TV新聞は犯人と決めつける報道を垂れ流す。河野さんが保持していたほんの少しの薬品や農薬をいくら使っても100パーセントサリンはできないのに、つまり物的証拠が全くないので、自白供述書を権力はほしいのである。あくまでもオカミの「私は正しい」。「ヤツは間違っている」。
 ちなみに国家(自衛隊)はサリン製造しており、「そんなちっぽけな薬でサリンはつくれん」と言ってくれれば、カンタンなのに、国家特定機密情報なので口外しないなんて、恐ろしい(河野義行『命あるかぎり――松本サリン事件を超えて』第三文明社)。
 全く同じようにオウムも「私は正しい、殺人を正当化する教義も完備」「文句言ってくるヤツは敵、敵は殺せ!」も構造として一つ。不二である。
 その二つに立ち向かう河野さん。
 当時の中学生高校生だった3人の子どもに河野さん、「ひとは間違うものだ。間違えているのはあなたのほうだから許してあげる。そういう位置に自分の心を置こう」と言い聞かせていたという(同記事)。
 「悪いことはしていないのだから、卑屈にならず平然と生活しようという思いでした」(同)。
 「どれだけ誰かを恨んでも憎んでも過去は変えられません。ならば人生の時計をちゃんと動かして前に歩いていった方がいい、と私は思いました」(同)。
 「恨んだり憎んだりするという行為は現実には、夜も眠れなくなるほどの途方もない精神的エネルギーが要るものです。しかも何もいいことがない。不幸のうえに不幸を重ねていく行為なのです」(同)。
 河野さん、二つものオウムなるものにぶつかっても内面化せずに乗り越えていった稀有なひと。
 河野さん、引用一切ない。イエスもブッダも縁がない。ただただ少しやんちゃな野(や)の生命力を深め、「約束はきちんと守る」「原理原則をはずさない」という一点で乗り越えた。こんなひとが、この日本の野(の)にいたんだ。
(9月24日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:28 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第64回)小さく低く弱く遠いところから

 9月13日(日)に伏見の世光教会へ、本田哲郎さんとの対話をしに行った。
 本田さんに会って話をすると、私は心が落ちつく。
 夏の疲れが出ているのか。体が少し重い。けれども、心がスッキリし、軽くなった。そんな気がいまここでしている。
 何度も書くけど、「小さく低くさせられたひと」とは誰か、である。9月13日にも話題になる。
 あるひとが「べてるの家」のひとたちとの交流のことを話した。「べてるの家」の、とても未来性のある話。
 北海道の浦河の赤十字病院に集まっているひとの物語だ。私も何度も書いているし、本もいっぱい出ているし、海外のひとびとも関心をもっているひとたちのこと。
 精神障害のひとたちが互いの〈弱さ〉を認めあい、ケンカトラブルは〈恩寵〉という態度の中に、「小さく低くさせられたひと」への(神からの)励ましがあるのだ。9月13日の話をまとめれば、こうか。
 どういうことか。べてるの家に初めてやって来たひと、初めて自分の人生に余計な口出しをしたり、管理したりするひとがいないことに気づく。医者だって「治したくない」「治りませんよ」と言う。だから。当事者たちが対話しあうことによって、つまり「場所」の応援を借り、生きているという充足感が湧き上がるまで、待つことを学ぶ。そのころ精神障害そのものがそのひとの個性のひとつと感じられるんだ。
 「場所」の応援のような精神の運動が起きているのがおもしろい。それが(神からの)励ましだ。劣等の意識の垣根も壁もすべてじゃま。本来価値から遠いことが体感される。これが出発。
 私たちはいかに多くのものに依存しているか。社会的名声。豊かな収入。成功。見栄えのいい職歴、学歴。私だったら、本。
 本来はすべてがなくても生きていくのには何の支障もないものばかり。死んでも持ってゆけないものばかり。
 飛ぶ鳥を見よ。
 そう思って寝ても、翌朝起きれば、依存だらけ、呪縛だらけの姿にまた戻っている。私もそうだ。
 でも、それでいい。「ああ、きょうもミィーティングしたけど問題は解決しなかった」でいいんだ。そういう対話ができる仲間がいて、機嫌よく「解決する」という方向に歩いているんだから。
 病いというのは、本人の意思とはかかわりなく、本質価値の人生へ転換させてしまう。身体が不自由、仕事に集中できない、他人が怖い、お金がない、家族から疎まれている、字が書けない……という現実に陥ってしまう。しかし、そうだけど、弱いもの同士が助け合っていく場所そのものがあり、字が再び書けるようになっていくこと、これは拍手喝采の出来事になっていく場があるのである。生きるということだけで、ただそれだけで、どれほどの本質価値があるのかを自覚できる場所。
 宗教は同じ行為を、ただ主体的に行うことだっていうこともわかるね。
 世光教会に集うときの気づきをいまかみしめている。本田さんの笑顔を思い出している。
(9月17日)

 

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:17 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第63回)井戸を掘って、水があるんだから

 論楽社のホームスクール(家庭学校)において、日常的に行っているブックレポートについて、書く。
 まずはその本の著者筆者が「何を伝えたいのか」を受けとめ、キャッチしたことを、200字ならば200字、400字ならば400字、あらかじめ定めておいた字数で書き現すことをやってみる。
 写真集や絵本だったら、それを言葉にどうするのか。
 詩集や物語だったら、どうするのか。
 新聞や雑誌のコラム記事だったら、どうか。
 チャレンジになるかもしれない。
 小さくて低いチャレンジだと思って――。
 問題はその後だ。その次に、その子(生徒さん)自身が「どう感じたか、どう思い、味わったか」である。200字ならば200字で、書き出すんだ。
 案外に難しい。
 なかなか「私の思い」が形にならない。
 私の思いがないひとはいない。なのに出てこない。
 「出してはいけないんだ」という抑圧がきっとあるんだと思う。「好きなことは何?」と聞いても出てこないひとが多い。同じ理由からじゃないか。
 だから、練習しないと、出てこないと思うのである。
 私は「井戸を掘ってごらん」と言っている。「水があるんだから、ちゃんと」と。
 小さくても細い井戸を掘ることができたら、水がこんこん湧き上がってくる。
 その水が「正しい」とか「違うんじゃないか」ということは一切ない。
 それぞれのひとの滋味で、それぞれが旨いんだと思う。
 細い井戸を1本掘ることができれば、その井戸は一生もん。なんとか生きてゆける――。
 私は夢見ている(以下のリーダーは代表者ぐらいの意)。
 いまのリーダーというのは征服民族型の極(きわ)みのようなひとばかり。
 感受性が鈍いので、ひとの痛みを「わが体の足の小指の痛み」のように全く感じられない。けれど、逞しい。いまの政治経済のリーダー、体力自慢だらけ。
 そうして同じようなタイプの感受性の鋭くはない、従順な働き手たちをコントロールし、働きアリ(ハチ)にしている。
 そうではないひと、征服民族型ではないひと、あえて言えば先住民族型のリーダーがこれからどんどん輩出してほしい。M・ガンジー、ダライ・ラマ、阿波根昌鴻というひとたちのことを、心に浮かべてもらえば、うれしい。
 感受性共感能力が豊かなままに逞しさを身につけていること。競争原理の優生主義の嵐の現在(いま)においても、自分たちが幸せに生きていくための力を失わない「やさしい逞しさ」があってほしいという願いだ。そういうひとがゼロではないことに希望を持つ。
 生きのびるための技術のひとつが、心の井戸を掘ることだ。掘りつづければ、枝葉は決して枯れないし、実だって生(な)る。
 女性の中から、学校に行っていないひとの中から、沖縄の中からこそ、困難に立ち向かうことができるリーダーは育つ。
 たとえば、こんな夢だって。ふつうの通り(たとえば三条橋の河原)から、「武器で戦う」なんていうアホらしいことと武器を軍人たちに放棄させる音楽が生まれることを。心の井戸水さえ汲み上げれば、きっと可能だ。
 そんな音楽、いちど聞きたい。
 そうして次の衆議院選に10年後のリーダーたち、立ち上がってほしい。
 以上のこと、ひそかに思いながら、ブックレポートの作文を見ている。
(9月10日)

 

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 11:23 | comments(0) | - | - | -
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