論楽社ほっとニュース

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どんな父母たちによって支えられてきたか――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その6)

 ホームスクールの場合、「ここはここなんだ」「虫賀は虫賀なんだ」と思ってもらっている父母のひとたちによって、支えられていることは間違いない。
 古風なつきあいかたが生まれると感じる。
 自然な感じでときどきあいさつに来られる。「その子を大切に大切にしている」ということがそのお母さんからひしひしと伝わってくる。参加しているその子がとっても楽しんでいるので、自然とホームスクールのセンセも大切にします――という感じであいさつを受ける。
 「進歩的」「革新的」(なんという古い用語だあ)というよりも、もっともっと土の香りがするお母さんが多いと感じる。根としての女の力を感じる。
 きっと私自身も体が古風さを保っているんだろう。たぶんね。
 そういう根っこの部分が共鳴しあっていかねば、ホームスクールのような動きを支えることはできないのかもしれない。そう思う。
 あるフランス人の姉妹が長い間参加してくれたことがあった。その姉妹は正座し、どこか武士の娘のようであった。フランス人なのにね。そのお父さんもしばらく参加してくれ、学びあったこともなつかしい。そのお父さんも古武士のようであったな。
 そうだ。男の子3人とも参加してくれた家のお父さんも古風だったな。お米専門の運送業だった。「はたらくって、傍(はた)を楽(らく)にさせる、のです」と言っていたのを忘れられない。
 私は基本的に「口舌の徒」だと思っている。けれども、私の父母は農民だったし、生きていくことは深い保守主義によって支えられているし、助けられていると思ってる。子どもを育てることは、そういう力業(ちからわざ)なのだと思う。
 この保守主義を、故郷の山野を守り育てる、味噌や梅干しの味を守り育てる、自らの子どもをあくまでも守り切る――意味で使っている。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 06:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
悪ってあるんですか――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その5)

 底冷えのする夕刻、あるホームスクール(家庭学校)のひとが、ふと聞いた。「なんで、悪って、あるんですか」って。
 私はそのときその場で直観したことを言ってみた。
 いい質問だ。いい質問には全身が動く。頭の芯が呼応する。
 「たしかに悪人と言えるひとがいるし、『ひどいこと、するなあ』と震えるようなことはあるよねえ。でも、しかし、『悪そのものって、あるんだろうか』といちど疑ってみる価値はあると思います。」
 「この小さい本、『たんにしょう(歎異抄)』って言って、親鸞というひとの声が記録されているものです。その13条に(現代語訳でしかもはしょって)『善心が生まれるのも悪事が行われるのもともに宿業(しゅくごう)がはたらくのだ』『たとえば、ひとを千人殺してみよ、そうすれば往生が定まる、と言われても、弟子の唯円はできぬと言う。一人のひとさえ殺すことができないのは、心がよくて殺さないのではなく、ただただ業縁(ごうえん)がないからなのだ』とあります。業って、ある行為が生ぜさせる結果のことです。800年前のワシらの先輩たちは『目に見えない業』を信じきっていた。過去からのひとつひとつの行為の積み重なりが何かふしぎな結果を生む、ということを信じていたんです。いちまいの紙の向こうには、青空のうちの雲があり、雨を降らせ、樹が育ち……という膨大な縁起の積み重ねがあります。同じように君というひとりのひとがいまここに在るためには、どれほどのひとの、いかほどの行為の結果なのか、思い起こしてみるのも、とてもいい効果を生み出すかもしれません。」
 「別の視点から見てみましょう。夏目漱石の『こころ』です。そこで先生が言いますよね。『悪い人間という一種の人間がこの世にあると君は思っているんですか。そんな鋳型(いがた)に入れたような悪人は世の中にあるはずはありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくとも普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです』って、語っています。ニヒリズムを言っているのでしょうか。違う。ひとの全体というものは、そういうものなんだと哲理を伝えたいのだと思う。小猫がある縁によって急に虎や龍にもなり、その逆もあるのです。」
 いい質問は教師も生徒も、その役柄を捨て、ひとに帰らせる。そうして語りあえるね。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 23:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
学びあい――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その4)

 ホームスクール(家庭学校)のその後のこと、少し書く。
 「なんで始めたの?」「何をどう教えるの?」「進学はできるの?」というみっつの問いかけの後は、「いまはどう?」。
 この4つ目の質問に答えていきたいと思う。
 答えのひとつは、それぞれが学びを深めているのではないか、と思うこと。
 学びって、学びあい。私がそう感じることは、(ホームスクールの参加者の)そのひともそう感じていること(と思う)。
 あるひとはアトピー。アトピーって、いわば全身で「この世界はイヤ」と言っているようなこと。月に1回治療受けながら、ホームスクールでも、深呼吸、深呼吸……。意識して、深呼吸し、いまここに帰ってもらっている。
 また、あるひとは7、8年前の思いを静かに語ってくれる。そのひとの母が当時言ったそうだ。「高速道路を走らなくていい。歩道を歩いていけばいい。野の花を愛(め)でながら」。そのとおりだ。賢者だね。
 みんなそれぞれに、少しずつ少しずつ、ちょっとずつちょっとずつ、自己受容していってほしいと願う。
 答えのもうひとつは、同時進行で宮沢賢治を読んでいること。おもしろいということだ。
 私にとって、いままで3割が「?」だった賢治。その「?」がふしぎなことにすっきり消えた。受け入れたんだなあと思う。
 賢治が受けとめた「小さな神々」が私の中でいま動きはじめている気がしていて、楽しい(ホームスクールの参加者の)ひとたちの楽しい、笑顔を見ながら、その楽しさが伝わってくることもきわめて大きい。ひょっとして、いままででいちばんいまが楽しいかもしれないな。
 じゃあ、またね。次のニュース(その5)も待っていてね――。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 23:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
進学はどうなのか――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その3)

 (連載コラム「いまここを生きる」の第203回「モノではない」2016年5月19日、に引き続き、繰り返しなんだけども)ホームスクールの進路についてである。
 「ホームスクールに行っても進学できるのですか」とよく聞かれる。
 「よくわからん」という表情で聞かれる。
 「ホームスクールなんて、どうせ訳のわからん塾じゃろう」と一方的に思い込まれているんだろう。
 きっとね。
 私はそういう思い込んでいるひとにはあっさりと次のように答える。
 ホームスクールの卒業生や現在の参加者たちを守るためでもある。
 「大学の受験、みんな、できていますよ。たとえば、信州大学農学部、同大学経済学部、京都産業大学法学部、同志社大学文学部、愛媛大学農学部、パリ大学文学部、ストラスブール大学法学部、京都文教大学、大谷大学、京都精華大学、花園大学、大分大学工学部、京都薬科大学、成安造形大学……へ希望して進んでいます。高校の受験も含め、失敗したひとはいません」と――。
 でも、これは誇大広告。自ら書きながらも、「誇大広告や」と思う。
 聞かれたから、答えただけ。ウソではない。でも、腑に落ちない。なぜか。
 参加してくれたひとたちを大切に、進学のほんのいち部分を手助けしただけ。私の実績だなんて、とんでもない。違う。
 「教育って、何か」と考えたのことのあるひとならば、「誇大広告」という感じは伝わるはず。塾や予備校のチラシ、各新聞社の週刊誌の高校進学者ランキング――なんて、やってはならぬことだと思う。ひどい。悲しくなると思う。
 ひとをモノとして扱い、商売のネタとして見ている。競争原理の勝者のような扱いはヒドイ。
 東大、京大、医学部への信仰から目覚めてほしいもの。目覚めるどころか、ますますブランド化している。そんな信心、ウソ。ひとりとして幸福にしない。そんな宗教に執着して、どうする。
 進学なんて、人生のひとつの手段の風景。人生の目的であるはずがない。自らの人生の課題(必要、意味)を生かしていってほしい。でも、そのひとの課題に入り込むこと、私にはできないことでもある。
 ひとりひとりは必要があって、この世に来ている。与えられている必要、意味をどう使い込んでいくのか、なんだ――。
 縁あって出会ったひとは、ホームスクールの時間の中では、「競争がない」ことを知る。「ここがもうひとつのホーム(家庭)、もうひとつのスクール(学校)であること」を知る。水平な場所で他者信頼、自己受容が自然と生まれる。
 そうすれば、進学なんて、できるのだと思う。そういうものではないかと思っている。
 「きょうもほんとによく来てくれましたね」と私はホームスクールへの参加者にあいさつする。学校が終わって、疲れて、腹も減ったのに、駆けつけてくれるんだ。ありがとう。

 

 新しい仲間、出会いを求めている。
 ようこそ、ようこそ。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 09:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
何をどう教えるのか――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その2)

 (2016年8月28日のニュースにひきつづいて)ホームスクール(家庭学校)では、何を、どうやって教えていくのか――。
 これもきわめて、大切な質問である。
 参加してるひとのニーズ、必要、思いによって、その答えは異なる。対話や以心伝心によって、伝達されたテーマが、ともに学びあう教材を決定していく。
 具体的に話していこう。

 

 A. 大学生。高校3年間数学でいっしょにさんざん苦労し、進学。いまは作文(小論文)の調整をすることのほか、「小さい神たちのゆくえ」というテーマ学習をともに取りくんでいる。
 このテーマは、その大学生の願いによって生まれた。大学生になっても来てくれて、ありがとう。
 星野道夫さん、アメリカ・インディアンの詩、松居友さんの絵本、星川淳さん、金関寿夫さん……を学んでいるところ。
 「本から受けるメッセージやテーマ」と「自分自身の思い、感想」を分けて、ノートに書いてもらって、対話を重ねている。理解を深めてもらっている。
 私も学び甲斐があるテーマだと思っている。
 B.大学受験生。英語と古文・現代文と政治・経済。英語は5冊の教本を終了し、もう2冊にいま集中的に取りくんでいる。古文・現代文も2冊終了し、同じようにさらに2冊読み込んでいる。政・経も同じように2冊終了し、もう1冊に向かっている。週3回各2時間はアッという間に過ぎている。
 目標は合格。それも、確かな達成感に裏打ちされて、しかも入学後にも花開く文化力を身に付けてほしいと願っている。柳宗悦や鶴見俊輔さんを読んでもらったこともある。
 不安に絡められることもあろう。素人ながらのメディテーションをともに行って、ともに対応していこうと努力しているところ。
 C. 中学生。日常的な中間・期末テストに備え、数学・理科・英語・国語・社会をていねいに教えている。「わからない」ところを尋ねられながら、気づいたところを私が問うて、つまり問答対話をしながら、アッという間に90分(ホームスクールの授業時間)が過ぎるという感じ。テスト前には土曜か日曜に来てもらって、おさらい(これはサーヴィス)。
 参加してくれているのは、ふつうに部活をやっているふつうの中学生。いまの教育システムは中学校から競争原理を中心に置く。なるべく水平なあたたかさを保ちながら、ひけめなんて感じない文化力を保っていってほしいと願っている。
 D. 小学生。算数の割算、比などの問題集、国語の教科書や『にほんご』(福音館書店)以外に、宮沢賢治の初期童話に取りくんでいる。(いまは『どんぐりと山猫』)「これはどういうこと?」「何でこうなってんの?」「ほんとなんかな?」とか問いかけ、「賢治ワールド」を楽しんでほしいと願っている。

 

 中学生と小学生がホームスクールの中心。学ぶことは楽しい。楽しさが実感できれば、もう大丈夫。成績は伸びる。

 

 いちど、あるとき、あるひとが「ぐー、ぐー、ぐうー」とお腹が鳴った。
 ホームスクールは夕方。空腹が問題。「よかったら、食べてみない?」と散歩中に採ってきたアケビをさっそく持ってくる。「え!? これ、食べ物?!」と見ていたひとたちが口にする。「甘い!」「おいしい」。自然な、さっぱりした甘み。なかなかでしょう?
こんなこともあるホームスクール。
 教材は無尽蔵にある。元気にさえなってくれれば、何でもよし。アハハ。
 いま、月曜日から金曜日まで、毎日毎日ホームスクールを開いている。
 論楽社の門のところに13年前に墨書した。

 

 「ていねいに あたたかく教えます」。

 

 思いはいまも全く変わらない。
 いや、深くなっている。
 ともに学ぼう。
 参加してください。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 09:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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