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連載コラム「いまここを生きる」(第316回)灯がともる

 『離島の本屋――22の島で「本屋」の灯りをともす人たち』(ころから、2013年、以下は本書とする)を書店で何気なく見つけた。
 本屋という存在に親近感を持っているひとならば、思わず手にする本。サブタイトルもいい。写真も盛りだくさん。旅気分の味わい。
 書き手は、朴(ぼく)順梨(じゅんり)さん。文中に「『元』在日韓国人」(本書P.26)なんてある以外は、わからない。その朴さんの離島への旅の記録。
 離島なんだから、お客さんも書店主もみんな顔見知り。
 どんな本を買ったか、わかってしまう。
 恥ずかしいし、イヤなこともある。
 それ以上に知っているひとがいるから安心安全の交換の場所に、小さな島の本屋がなっている。
 本には「生きのびる愛」が詰まっている。
 その本は書き手や編み手(編集者)に、渡し手(書店員や図書館員)に読み手(あなた、私のこと)がいないと、成り立たない。島まで届いた本を手渡すのは、きっと喜び。
 「『この本誰かもってる?』って聞かれることもあって」とノートをつけている店主(本書P.31の伊豆大島の冨士屋書店)。
 その誰かが友人だったら、見せてもらうんだ。シェアするんだ。おもしろい。
 書店は商売なんだけど、商売だけではないんだ。
 他の仕事も島ではそんなんだろう。
 貨幣も重要だけども、ともに生きていくということのほうが島では最重要であるルールなんだ。
 日本だって大きな島、地球だって大きな船――と考えれば、全く同じなのに、そういう現実を忘れてしまって生きていると言える。
 イメージ・トレーニング。「島で生きること」を心の中に置くというイメージを持つと、おもしろい。「いかにムダなことをしているか」がよくわかってくる。本書は「もうひとつの旅」へ誘う。「成功ではなく、幸福を求める」ことを改めて気づかせてくれる。
 私はまだ縁がなくて、宮本常一さん(1901〜81)をほんの少ししか読めていない。いかん。
 本書で、その宮本さんが登場してくる。
 山口県の周防大島の鶴田書店主が、こう言う。
 宮本さんは周防大島出身。「まさに小さな島の、大きな誇りなのだ」(本書P.56)。そうなんだ。
 「先生の本は自分の趣味で集めてるんだけど(レジの横に積んでいる、虫賀)、その中で一番読んでほしいのは『忘れられた日本人』(岩波文庫)と、『私の日本地図』(その後、未来社から復刊)です。特に『私の日本地図』のあとがきには、『島で生きるためにはどうしたらいいか』について書かれているんだけど、それを読むと、自分もグッとくるんですよ」(同P.56)。
これを見て、「あ、宮本常一に出会ったんだ」と思う。忘れずに『私の日本地図』を図書館にリクエストしよう。きっと何かが生まれる。
 離島の本屋。現実には雑誌に文房具、駄菓子をいっしょにした商店が半分か。それも潰れていっているのが現実(潰れた後は、図書館の分室をつくっていってほしいな)。
 しかし、その本屋の灯りがともっていることによって、心がほっこりできたら、凄い価値があるんだ。小笠原諸島、隠岐島、礼文島、与那国島に灯りがいまともっている。
 私は離島じゃないけど、岐阜の羽島の片田舎で、「親問題」(鶴見俊輔)に気づいてから、自転車に乗って25分、武藤書店と田中書店(この2つしか、羽島にはなかった)へよく通ったのを思い出す。当時買って何度も読み返した『ガンジー』(旺文社文庫!)はいまも座右の書だ。
 離島というのは、山小屋と同じように、ひとにとって何が大切で、何が大切でないのか」の原点を思い出させてくる。長崎の対馬の睦書房で反原発の本が売れているというのもおもしろい(本書P.133)。「対馬の財布は自然しかない」(同)。これもひとつの原点を示現してくれている。
(7月12日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第315回)直訴(その2、完)

 幣原(しではら)喜重郎元首相(以下、元首相と呼ぶ)がマッカーサー連合軍司令官(以下、軍司令官と呼ぶ)に、1946年1月24日直訴したという話の続き。少し追補したい。
 9条が占領軍の軍司令官の「押しつけ」ではないことが、これで明白となった。まだ間に合う。「押しつけ」ではないこと、伝えあおう。
 もともと「押しつけ憲法」という言いまわしは好きにはなれない。
 占領軍がいたときに直接に文句を言わず黙っていて、占領軍がいなくなったから、急に声高に「9条の戦争放棄とはなんだ、日本が二度と欧米に立ち向かわせないように、いわば去勢されたのだ、もういちど去勢されない日本を取り戻そう」と主張。「押しつけられた」との70年に及ぶ連呼の繰り返しが一定の支持を受け、2020年の東京オリンピックの年に改正発議国民投票をしようか(どうしようか)という事態に至っている。
 占領軍が去った時点で、特別な国民投票を呼びかけ、「ワシらの憲法」として選び取っていく方法があったと思う。
すれば、9条がもっと、もっと日常化され、生活に生かされ、「押しつけ論」の蔓延を防げたはず。
 その国民投票運動の過程で、「ブッダやガンジーの実践に学ぼう」といった精神の運動も始まり、「9条を世界へ広げていこう」という展開もあったはず。
 現実は違う。
 元首相の秘密の直訴によって、戦争放棄と軍備全廃が成立したんだ。
 秘密交渉で9条が決まり、その後もさまざまな密約が日米で交わされ、天皇の頭越し外交によって沖縄が切り捨てられ、現実の戦後の体制は「与えられた半民主主義の」の状況が現在まで引き続いている。
 民衆国民はいつもいつも蚊帳の外。
 右派民族派も米軍・米国の半植民地であることの現状への批判が一切なく、星条旗を振りながらも相変わらず「押しつけ憲法」と、平和を侮蔑している。
 対話が成り立っていない。
 きわめて不幸な状況にますます突入している。
 「どうすればいいのか」と思いながらも、まださまざまな隙間があると感じられるので、動いてゆきたいと思っている。
元首相の直訴によって9条が成立したときのことを、軍司令官は後でこう証言している。
 「わたくしは、これを聞いて思わず立ち上がり、この老人(元首相のこと)と握手しながら、これこそ最大の建設的歩みの一つであると思うと言わないではいられなかったのであります。わたくしは、この老人を激励いたしました。そして、かれらは、あの規定(9条のこと)を書き込むことになったのであります。」(1951年5月、米国議会上院軍事・外交合同委員会の証言)
 当時、軍司令官は護民官のようにふるまっていた。実際、平和主義・主権在民(天皇は象徴)・基本的人権尊重を日本国民に与える振りをしており、人気は抜群。「拝啓 マッカーサー元帥様」と綴られた50万通の手紙がどーんと届いたのである(袖井林二郎さん『拝啓マッカーサー元帥様』岩波現代文庫)。
 軍司令官は単に軍人。米国の利益のために動いているだけなのに。50万通の手紙は、ある種のラブレター。ちょっと無気味。
 9条があるのに、朝鮮戦争が始まったら、「日本に再軍備を」と命令するし、中国人民軍が乱入し参戦してきたら、原爆使用を言いはじめ、解任。離日。
 そのとき、「名誉日本国民」にしよう、でっかい銅像を建てよう、「マッカーサー神社」を建立しようという話が出る。盛り上がる。秩父宮や朝日、毎日新聞社社長が発起人に名を連ね、募金を始めようとしたとき、軍司令官が「日本人は12歳」なんていう自説を開陳したのである。(前掲の1951年5月の米国議会証言)。
 バカにされ、カッとなったワシらの先輩。「マッカーサー神社」の話は、一場の夢と化す。一方的な愛を送っていたことへの恥ずかしさ、情けなさ。これも、実にあわれで無気味。
 敗戦のわが身を省みることなく、占領の現実の権力構造にあまりにもやすやすと身を寄せてしまうこと。東京大空襲をやったルメイ空軍大将にまで勲章を渡すワシらの国のこと。わが煩悩を活性化させる問題。なんとかならぬか、うーん。
(7月5日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 13:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第314回)直訴(その1)

 薄くて小さい本を読んだ。
 本屋の片隅にあるのを、見付けたので。キラリと光るのを感じたので。
 鉄筆編『日本国憲法――9条に込められた魂』(鉄筆文庫、2016年、本体価格500円、以下本書とする)だ。
 「鉄筆」なんて、実におもしろいではないか。
 幣原(しではら)喜重郎元首相のある秘密の行動が小冊子のテーマ。
 幣原元首相は、戦前に4回外務大臣をやり、国際協調、軍縮平和、共存共栄などの幣原外交を展開。軍部が台頭しはじめると、「軟弱外交」「腰抜け外交」と邪険にされるようになり、退陣。
 敗戦後、昭和天皇の命により、1945年10月に首相に就任。
 新憲法の制定に携わる。
 幣原元首相がかかわった新憲法の9条のことをいま書かねばならない。
 私がいままで書いてきたことを訂正しなければならないことを知ったのである。
 もちろん基本的には米軍・米国がすべての実権を握っており、日本国憲法の制定権も持っていたことは間違いない。天皇制保持も米国の方針。米軍にとって、都合がよかったからである。そういう訂正は必要ない。
 今回、この鉄筆文庫によって、幣原元首相がマッカーサー司令官と秘密裏に会談し、9条のことを提案していたことを知ったのである。マッカーサーへの直訴だったのである。
 その会談がどんな感じだったか。
 幣原元首相へのインタヴューが残されている(1964年2月の憲法調査会事務局が文字化し、それが残されていたのである;インタヴュー自体は1951年2月、10日ほどして幣原元首相は死去、ゆえにこのインタヴューが遺言だった)。ごく短く、記す。

 

 「原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるであろう。」
 「軍縮交渉とは形を変えた戦争である。」(本書P.135)
 「要するに軍縮は不可能である。」(同P.136)
 では、どうするのか。
 敗戦国日本からまず非武装宣言するのである。
 「全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か(略)。要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。」(同P.138)
 侵略があったらどうするのか。
 「要するにこれからは世界的視野に立った外交の力に依て我国の安全を護るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ。」(同P.140)
 多くの日本人はマッカーサーの命令で9条が生成したと思っている。
 「僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言いだすようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つは密接にからみ合っていた。」(同P.141)
 「憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった(略)。一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。」(同P.143)
 「たとえ象徴とは言え、天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう(略)。このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。」(同P.148)

 

 以上である。
 マッカーサーは日本軍の武装解除は考えていた。しかし、マッカーサーは軍人である。軍人は非軍の発想ができないゆえ、日本人の元首相の入知恵によって、9条のような決断をしたんだ。かつ、天皇の戦争責任を問う国々(ソ連、オーストラリア、ニュージーランドなど)があり、天皇制存続を言うためには、それ相応のカードを新たに切らねばならなかった。そのときに運よく幣原直訴があった。「渡りに舟」だったに違いない。
 1946年当時は日本軍部はすさまじい勢力をまだ残していた。押し切るには、天皇の上位に座するマッカーサー将軍(征夷大将軍)の力を借りる以外になかったんだろう。
 でも、腑に落ちない。幣原元首相という重臣の秘密交渉で生まれたとは、納得ができない。
 ある程度公開し、議論をしていかないと、一般庶民国民の政治力がつかないではないか。外交力を発揮する基礎力が付かないではないか。近隣諸国に9条の精神が広がらないのではないのか。「押し付け憲法」論のプロパガンダを蔓延させてしまったのではないか。
 重臣の力によって、9条が始まっていたとは。
(6月28日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 17:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第313回)消えない火

 論楽社に「ぶなの森の会」があった。
 過去形であるとずうっと思ってきた。
 小冊子の『ぶな』も10号で休止している。20年間も休んでいるのだから、もう「終わった」「消えた」と思って、自然なこと。
 『ぶな』9、10号は各200冊もまだあり、6〜8号もそれぞれ何十冊がいまもあり、「ぶなの森の会」を支えていただいていて、名簿が残っているひとに、気まぐれのように、いま1冊ずつ送付している。ゆっくりと送りつつある。
 20年もたつと、身辺は変容する。「母は4年前に亡くなりました」と家族のひとから電話が入ったりする。自然なこと。
 「ずっと活動されている事、嬉しく思いました」「論楽社はボクの根っこの“肥やし“でした」という反応反答があったりする。ありがたいこと。
 しだいにはっきりと気づくようになってきた。何か。それを書く。
 20年前当時の私はなるべく私自身を隠していた。隠れていなかったかもしれないけど、主観的には隠れたつもりで、「論楽社編集部」(こんな実体はない)「論楽社ぶなの森の会」(事務係のつもり)とか、名告(の)って、ペンをとっていた。
 いろんなことがつらかった。「終わった」と自分自身で思いたかったんだろう。
 ところが、「ぶなの森の会」の名に託した私の願いは一切変わっていないことに、改めて気づいている。
 「ぶな」は橅と書く。「役に立たない、用無しの木」と書く。杉や桧ではないけども、建材にも東北や新潟、岐阜などではちゃんと使われていたし、保水力がきわめて豊かで(実際にぶなの森では水筒いらず)、葉っぱが薄い緑なので水を透かし、下草低木きのこなどの多様ないのちを多元的にいっぱい育てていて、見事なのだ。歩いてみたら、誰しもが「この森はいいね。ずっといたい」と思う森。
 きっと橅という漢字をつくったひとは、実際の「ぶなの森」を知らなかったのであろう。
 ぶなの自然林(原生林)を戦後に乱伐過伐し、杉の人工林にしていった。ぶなの価値に無自覚で、無計画な欲望のままに「ブナ退治」「ブナ征伐」なんていう言葉すら平然と使われていた。
 そうして、ほとんどの山が杉だらけになって、台風や大雨のたびに倒れ、下流に流出している。山が荒廃している。
 橅の種が年々山に蒔かれていって、荒廃した森が再生していくのを夢見ている。再生力を信じている。
 その橅の名を冠した「ぶなの森の会」も生きていると思っている。実感している。
 亡くなったひともいるし、心病んでしまったひともいる。
 表層がそうだとしても、何があったとしても、みんな、いのちいのちいのち。
 「ぶなの森のように多様に生きていこう」という願いは、いまも現実に私の体の中にある。
 私の思いはいまも再生され、更新されている。私の中に火が灯っていて、消えていないから。
 ホームスクールにしてもそうだ。このたびホームスクール(家庭学校)の参加者たちの膨大な作文を読み直した。そうして処分して、別れていったのだが、同じように改めて火が灯っているのに、気づく。ホームスクールにおいても表層はいろんなことがあった。しかし、「もうひとつのホーム」「もうひとつのスクール」であったし、これからもありつづける。私の体の中、その火が灯っているから。火が消えていないから。
 私のいのちがあるかぎり、火は消えない。
(6月21日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第312回)一本道

 岡部伊都子さんの仏像についてのエッセイを読み返そうと思って、引き抜いた。
 そうしたら、この冊子がポロンと落ちた。
 「あっ!」という直観が働く。
 『旅のひと パリ―京都』(法蔵館、1982年、以下本書とする)。
 書き手は藤田ジャクリーンさん(以下ジャクリーンとする)。87ページの小冊子(値段も400円)。岡部さんからいただいているのに、読んでいなかった。
 一読し、「こういうのが読みたかったんだ」と思う。
 感応道交する。
 「こういうひとにこそ会いたい」と思う。
 ジャクリーンというひとが何年生まれのひとで、いま京都のどこに住んでいるのか、わからない(この冊子にも何の記載もない)。ただそう思う。
 「親鸞さまに なんのおみやげも持たず ただまっすぐにまいりました(略)一本道のこころでございます」(本書P.3)。
 これが本書の始まり。
 「くには南無阿弥陀仏のフランス/ところは南無阿弥陀仏のパリでした」(同P.7)。
 これが導入部。
 「フランスはカソリックじゃなかったのか」というツッコミは止め、まずは味わおう。
 5歳のジャクリーン、死を強く実感する。
 「生きる『私』死ぬ『私』/その『私』は何でしょうか」「この問題をひとすじに考えながら少女は普通の日々をおくりました」(同P.14)。
 「『私』は何ですか/『私』にであわないと 一生は無駄になると感じたからです」(同P.16)。
 このようにテンマルがない日本語が続く。ふしぎなまで、心の水鏡が澄んでいくのを感じる。
 14歳のジャクリーンは図書館で、あるうすい黄色の、ぼろぼろになった本に出会う。運命本。
 『SHINRAN TANNISHÔ』。
 「『SHINRAN TANNISHÔ』は見知らぬ『SHINRAN』というおじさまのこころのなかみに見えました/(略)一日中ご本をずっと読みました/(略)ただ読む前の少女に戻れないことを知りました/親鸞さまにだまされても後悔しません/ついて行きます/すべてついて行く『自分』『私』を初めて見ました」(同P.21)。
 「親鸞のこころのなかみ」。ブッダやイエスが肯定しえなかった悪の現実を生きているワシらを見つめる「こころのなかみ」。ジャクリーンという存在が澄んでいく。
 実際ジャクリーンは「親鸞に会いたい!」と思う。
 親鸞が750年前のひと(ジャクリーンが気づいた時点で)であることを知ったのは、なんと10年後(ジャクリーン24歳)のこと。これも、きわめて、おもしろい。
 親鸞の国へ行くことを決意。「出家しよう」とも決意し、ほんとうにシベリア鉄道に乗り、船に乗って、日本海を見たときに「親鸞さまの海に合掌いたしました」(同P.36)。
 「一本道は簡単です」(同P.35)って書いているけど、スゴイ。
 そうして京都で生き、結婚もし、金沢へも行き、再び京都に戻り生きている。
 ジャクリーンは法を聞く。法を見る。法を生きる。
 細部の雑多な知識は捨て去る。法そのものの本質を生きようとしている。それが他国語を母語にもつひとの日本語力によって(私は金在述さんを強く思い起こす)、「親鸞さまはずっと『法をききなされや』とおおせられます」「ただの人のまま如来さまにであわせていただけます」というニホンゴのリフレインが心に沁みる。
 法への帰依を感応する。自分自身になっていく。
 念仏をとなえれば、仏法が生活。生活も仏法なんだから、「いい」人にならなくてもいい。堕落ができなくなるから。
 自らを凡夫となげいて、本願に帰依するしかないと言うのは違う。それは念仏ではない。「まじめに法を聞くこととまじめに生きることは同じ帰依する一心です/「まじめに」それははからないでもなく 自力でもありません/それは真けんなすがたです」(同P.77)。
 法が示現したジャクリーン。妙好人。
(6月14日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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